月の夜 アザに触れて
トナカは、昼過ぎにはシズル領へ戻っていった。
馬蹄の音が遠ざかるのを見送ったあと、シリはふと空を仰いだ。
夜になり、風はさらに冷たくなった。
けれど、空には銀色の大きな月が浮かび、寝室の中まで静かに光が差し込んでいた。
「肌寒くなりましたね」
炉の火が赤々と揺れ、薪のはぜる音だけが響く。
グユウは、少し照れたように視線を逸らしながら、言った。
「・・・いいか?」
その声に、シリは首を横に振る。
「今夜は・・・だめです」
月の光が明るすぎて。
足にできたアザが見えてしまうのが、ただ恥ずかしかった。
見られたくないと思うのは、きっと――もっと、綺麗でいたいから。
「・・・月のものか?」
グユウは真っ直ぐに問いかけてくる。
シリは、小さく首を振った。
「いいえ。ウイを産んでから、ずっと・・・来ていません」
もう1年半以上になる。
今のシリにとって、生殖能力は二の次になっていた。
それを聞いて、グユウの目がほんの少し揺れた。
けれどすぐに、優しい声音で問うた。
「じゃあ、どうして・・・」
「今夜は・・・明るすぎるから、です」
シリは思わず視線を伏せた。
「この前、ぶつけてしまって・・・足に醜いアザができました」
太ももの外側をさすりながら、恥ずかしそうに言う。
「見られたくないのです。・・・みっともないから」
そう告げると、グユウはしばらく黙っていた。
「オレの身体は、傷だらけだ」
静かに、彼は言った。
「戦のたびに増えた傷・・・みっともないか?」
その問いに、シリは力強く首を振った。
「そんなこと、一度も思ったことはありません」
「なら、おまえのそのアザも、みっともなくなんかない」
そう言って、グユウはそっと彼女の足元に膝をついた。
そして、アザのある場所に唇を近づける。
「ダメです!みっともないので!」
シリは弱々しく抵抗する。
「大丈夫だ」
「大丈夫じゃないです」
グユウは止まらない。
日中に無邪気にトナカに抱きついたことを、いまだに覚えていた。
「シリはいつでも綺麗だ」
無自覚の甘い声が聞こえる。
ーーこんな時ばっかり。
嬉しいと思ってしまう自分が悔しい。
シリの腕の力が弱くなった。
「・・・ここか」
彼の声が低く、熱を含んで響いた。
アザはまだ色濃く、青と緑、そしてうっすらと黄色が混じっている。
「養蜂箱を持ち上げたときに・・・ぶつけました」
「痛かったろう」
本当は、痛みよりもこのアザをグユウに見せることの方が怖かった。
でも――今はもう、そう思わなかった。
「これは、ワスト領のために働いた証だ」
そう言って、彼はその場所に唇を落とした。
「ああ、綺麗だ」
ーー綺麗なんて、こんなとこ。
照れ隠しのようにシリは顔をそむけた。
けれどその声に、胸の奥がじんと熱くなる。
「嫌です・・・そんな、ところ・・・」
「大丈夫だ」
「大丈夫じゃ、ありません・・・っ」
そんな言葉のやりとりさえ、今は甘く、熱を帯びていた。
いつもの寡黙な男が、こんなふうに言葉を重ねてくれることが、嬉しくて――
悔しくて――
ーーどうして私は、こんなときばかり素直になれないの。
「あぁ、綺麗だ」
明るい月夜に照らされたシリの身体を、グユウは優しく撫であげて唇を寄せた。
繊細な手つきにシリの身体は震える。
今夜のグユウは情熱的だ。
グユウが触れる箇所、全てが熱かった。
「熱い・・・嫌です」
シリが弱々しく訴えると、グユウはうなずく。
「熱いな」
優しい声をかけてシリを見つめる。
「恥ずかしい・・・嫌です・・・」
熱を帯びた潤んだ瞳でグユウを見上げる。
それは、シリの本心ではないのはグユウは承知していた。
「・・・あぁ。オレが全部、悪い」
グユウがふと苦笑しながらそう囁く。
それはまるで、子どもをあやすような声で――
今夜の二人は、静かな月明かりのもとで、ただ寄り添っていた。
年月が経ち――
シリは美しい月夜のたびに、あの黒い瞳と、そっと触れた唇の感触を思い出す。
その男性は滅多に想いを口にしなかった。
言葉にしてくれた事が嬉しかったのに。
ーーあのとき、もっと素直になれたなら。
「綺麗だ」――その言葉が、どれほど嬉しかったか。
しかし、今夜は2人の甘い時間・・・それだけのものであった。
次回ーー
その年の十二月、雪の降らない穏やかな冬。
軟膏が奇跡のように売れ、レーク城に笑顔が戻った。
希望に満ちた夫婦と、夢を見る娘――
けれど、その幸福の光の裏で、次の戦の足音が静かに迫っていた。




