蜂蜜の舌と、胸の焦り
11月、冷たい風が木立を揺らす朝――
レーク城の養蜂箱が静かに開かれた。
中には、秋の終わりに集められた黄金色のハチミツが、まだとろりと残っていた。
「ほら、舐めてごらんなさい」
シリは小さなスプーンでハチミツをすくい、子どもたちの前に差し出した。
「おいしい!」
群青色の瞳を輝かせたウイが、笑顔で声をあげた瞬間――
シリは息をのんだ。
「エマ・・・今、ウイが・・・?」
「はい。わたくしも初めて聞きました」
エマもまた、驚いたように目を見開いていた。
ウイはこれまで、一言も喋ったことがなかった。
二歳になるまで口をきかなかったユウのことを思い出すと、
あまりに早い成長のように感じられた。
だが、それ以上に――その「おいしい」という声が、
どれほど心を温めるものかを、シリは噛みしめていた。
ユウのような目を奪う美しさはないけれど、ウイはよく笑い、周囲を和ませる。
その笑顔が、今は言葉というかたちで輝きを増しているようだった。
「ミツバチは・・・一生懸命働いたのに、ハチミツを食べても大丈夫なの?」
シンは真面目な顔でシリに話しかけた。
「大丈夫よ。まだ巣の中にはハチミツがたっぷりあるから、安心して冬を過ごせるのよ」
シリが説明すると、シンはホッとした顔をした。
「それなら・・・もう一口食べさせて」
グユウと同じ黒い瞳をした子のお願いに、シリは甘かった。
シリは微笑みながら、もうひと匙ハチミツを与えた。
ハチミツは籠城の非常食にもなる。
そして、巣から採れる蜜蝋は、軟膏作りに必要な原材料だ。
もちろん、それだけですべてが賄えるわけではない。
だが、軟膏の材料費を少しでも抑えられるのは、大きな意味があった。
問題は――販路だった。
今はシズル領とワスト領内でしか売られておらず、
製造を続けてきた軟膏は、ついにレーク城の二部屋を埋めるまでになっていた。
「ソウ・・・いま、どこにいるのかしら」
商人のソウは、他領への販路拡大を目指し旅立っていった。
それから、もう一月が過ぎた。便りはない。
アオソで布を織っても、戦をするには資金が要る。
争いが目前に迫っているのなら、なおさら。
城を吹き抜ける風が冷たさを増すたび、シリの胸の内にも、言葉にならない焦りが広がっていった。
◇◇
午後、レーク城の城門が静かに開いた。
霧の立ちこめる冬空の下、栗毛の馬に乗った男が現れた。
小柄で浅黒い肌、機敏な眼差し――
シズル領の領主、トナカだった。
「トナカさん!」
その姿を見つけた瞬間、シリは無意識に駆け出していた。
氷のような風も、周囲の視線も、何ひとつ気にならなかった。
ただ――胸の奥が、熱くなった。
「シリ!」
トナカも馬から飛び降り、迎えるように両手を広げる。
その腕に、シリは迷わず飛び込んだ。
シリの大胆な行動に、ホールにいた家臣や侍女達は、少しざわめいた。
それでも、シリは止まらなかった。
懐かしい人の温もりが、胸いっぱいに広がっていく。
一年ぶりの再会だった。
思わず頬が緩む。
「久しぶりだな」
トナカはシリの青い瞳を見上げる。
身長はシリの方が高かった。
トナカは、シリの美しい微笑みを顔に浴びながら、もう1人の強い視線を背中に感じていた。
「シリ・・・離れた方が良い。グユウに妬き殺される」
トナカは真面目な顔でシリに伝えた。
トナカの背越しに、グユウの姿が目に入る。
不機嫌そうな目つきに、シリはようやく状況に気づいた。
「・・・グユウ、妬くな! 挨拶だ」
トナカが苦笑混じりに声をかけた。
「妬いてなどいない」
グユウの声は低く、まるで地の底から響くようだった。
それを聞いたシリは、思わず吹き出す。
◇
昼下がり、グユウとトナカはロク湖のほとりに立っていた。
風もなく、水面は鏡のように静かだった。
ここは、二人がいつも大事な話を交わしてきた場所。
「グユウ、国王からの手紙は届いているか?」
切り出したのはトナカだった。
「・・・ああ。届いている」
グユウは短く頷く。
「ゼンシ征伐の命が、うちにも届いた」
トナカの言葉に、グユウは少し目を伏せて答える。
「戦いたい気持ちはある。だが、先立つものがない」
「戦費か」
トナカが静かに言った。
「うちもだ。馬も剣も、兵糧も、人手も・・・足りない」
「ミンスタ領はひっきりなしに戦っているのに、どうしてあれほどの財力があるのか」
グユウは唇を噛むように言った。
「ゼンシは、過去にないほど苦戦しているらしいな」
トナカの声に、皮肉がにじむ。
「過去の勝率は8割を超えていた。それが、この2年で4勝4敗4分け。だが・・・それでも十分強い」
彼らは、この2年でようやくゼンシの背中が見えるようになった。
だが、それでも届かない。
地力の差を、戦費の差を、身をもって知った。
「恐ろしい男だ。・・・何のためらいもなく、4千人を焼き殺した」
グユウの声は低く、凍るようだった。
それは、リャク領の焼き討ち――。
トナカは何も言わず、ただ小さくうなずいた。
ゼンシは、人を惹きつける美貌と威厳を持ちながら、
狂気に満ちた残虐さをその奥に秘めている。
「ゼンシが生きている限り、戦は終わらない」
グユウの言葉は湖面に吸い込まれ、風もなく波も立たないその水面を、静かに震わせた。
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色々あった日なので一際嬉しかったです。
ありがとうございます。
次回ーー
月が冴えわたる夜。
トナカを見送ったあと、シリとグユウは静かな寝室で向き合っていた。
恥じらい、照れ、愛しさ――ふたりの間に流れるのは、言葉より深いぬくもり。
それは戦の季節を前にした、最後の穏やかな夜だった。




