妃のとなり、誰にも知られぬ想い
10月になった。
雨の日は、城内では軟膏作りが始まった。
「売れない時にこそ、売れる準備をするべきです。良いものは売れます」
シリは言い張った。
軟膏の売上はリャク領が半数を占めていた。
そのリャク領が滅んでしまい、1番の顧客を失った。
販売する当てがないのに軟膏を作る事に、重臣達は不安を覚えたようだ。
軟膏作りは、領民を雇っているので賃金がかかる。
売れないものを作っても仕方がない。
注文がきたら作れば良い。
そんな意見が上がった。
シリと重臣達の意見の板挟みになり、グユウは悩んだ。
どちらの意見も正しいような気がするが、
財政に余裕がない今としては、シリよりも重臣の方が正しい気がする。
「あの軟膏は良いものです・・・。準備すれば・・・売れると思います」
唯一、シリの味方をしたカツイの一言で、グユウは決心をした。
「軟膏作りを続けよう」
その秋は雨の日が多く、軟膏作りが進んだ。
城内の使われてない部屋に行き場がない軟膏が
どんどん積み上がってきた。
こんなに多く・・・どうしよう・・・。
提案したシリ自身も、内心焦った。
商売をするということは、良い面もあるけれど、
様々なリスクを背負うことになる。
◇◇
晴れた日には、りんごの収穫があった。
シリは馬に乗り、りんご並木まで駆けつけた。
「妃が行かなくても・・・」
オーエンは困惑気味に眉をひそめた。
徒歩圏の移動なら侍女のエマが付き添えばよい。
だが、馬での外出には重臣の随行が求められる。
若いオーエンは、その役を任されることが多かった。
「実っているりんごを見たいじゃない。
このりんごも、将来のワスト領を支えてくれるはず」
シリは軽やかにそう言って、りんご並木へと視線を向けた。
陽光を浴びて枝を垂れた樹々は、まるで重みに耐えるかのように揺れている。
領民達がせっせとりんごをもいでいた。
「手伝おうかな」
「おやめください。グユウ様に・・・」
止める間もなく、シリはひょいと動き出した。
案の定、領民たちは慌てて止めに入り、シリはしょんぼりと肩を落とした。
柔らかな秋の日差しにぬくもりながら、青々としている片隅の草の上にシリは座った。
「私は役に立たないのかしら。背は高いと思うのだけど」
「・・・そういう事ではないと思います」
妃に働かせれば、領民が地主に叱られてしまう。
その説明をすれば、シリはまた余計なことを言い出すだろう。
扱いに慣れてきたオーエンは、何も言わないことを選んだ。
「オーエンも座らない?」
シリは草の上をぽんぽんと叩く。
「いえ。私は…」
重臣とはいえ、シリの隣に座ることなどできない。
「上を見て話すと首が疲れるの。私が許可するわ」
強引な命令に、しぶしぶ座り込む。
「オーエンはグユウさんと同い年だったわよね」
「はい。26歳です」
「オーエンは結婚しないの?」
突如として踏み込まれた質問に、オーエンは口をつぐんだ。
ーー説明しなかった天罰だろうか。
とんでもない方向に会話が進んでしまった。
「・・・しません」
オーエンは目を逸らした。
「お見合い話、たくさん来てるでしょう?」
「ええ・・・まぁ」
重臣は領内の繁栄のために、お見合い婚が中心だ。
この時代、26歳で未婚は珍しかった。
シリは小さく笑った。
「私が妊娠中に、グユウさんに妾を熱心に勧めたのはオーエンじゃないの。
領主に勧めといて、自分は結婚も妾も得ないの?」
言葉には、わずかに棘があった。
「・・・そんなこともありましたね」
昔、シリを毛嫌いしていたオーエンは、熱心にグユウに妾を取ることを勧めていた。
「誰か・・・想う人がいるの・・・?」
真っ直ぐなまなざしが、オーエンの中の戸を軽やかに開け放った。
「・・・います」
熱に浮かされたようにオーエンは答えてしまった。
言った瞬間、後悔が襲った。
ーー口にしてはいけないことだった。
目を逸らし、草の葉を見つめながら自問する。
なぜ結婚を望まないのか。
なぜ、見合い相手に心が動かないのか。
穏やかで美しい、誰もが賞賛する理想の女性たち。
けれどどの出会いにも、胸が高鳴ることはなかった。
──ああ、そういうことだったのか。
目の前にいるこの人以上に、魅力的な女性など見つかるはずがない。
「侍女?知っている人?もし必要なら、私が口添えしてあげる」
シリは純粋な興味で身を乗り出す。
その無防備さに、オーエンは目を伏せた。
オーエンは今までシリに対して、複雑で表現できない気持ちを抱えていた。
あまりにも美しいので憧れの気持ちもあるし、
困難な時ほど大胆不敵になるシリに尊敬の念もある。
そして、負けたくない嫉妬心もある。
グユウとシリが仲睦まじくしている姿を見ると、胸が疼く。
そのくせ、2人には幸せになってほしいと願っている。
けれど、結婚をしたくない理由がわかった。
ーーシリ以上に魅力的な女性に出逢わないからだ。
「・・・そんなことをしなくても大丈夫です」
うつむいたまま、オーエンはつぶやいた。
「気持ちは伝えた方がいいわ。伝わらないわよ?」
シリはまた、すっと距離を詰める。
その瞳を見てはいけない。
引き込まれてしまう。
「・・・片恋なんです」
ぽつりと落とした言葉に、シリはそっと息を呑んだ。
強く、弱さを見せず、正しさに忠実なオーエンが見せた、かすかな陰り。
それがシリの胸に、どこか切ないものを残した。
客観的に見て、オーエンは好青年だった。
家柄も良く、若いのに重臣に抜擢されるほど、
剣技に優れている。
仕事に忠実で正義感が強く、物怖じしない。
見た目も、グユウとは違うタイプの美形だ。
ガッチリした顎に、大きな暗灰色の目、笑うとその場の空気がパッと明るくなる。
シリは心の中でため息をついた。
「・・・勿体ないわね。あなたと結婚したい女性なんて、たくさんいるはずなのに」
「結婚は、しません」
強く言い切る声に、揺るぎがなかった。
シリを想いながら、他の女性と結婚するほどオーエンは器用ではない。
領主と違い、重臣は少しだけ結婚の自由があることがありがたかった。
「気が変わったら・・・いつでも言って。良い令嬢を紹介するわ・・・。
私もグユウさんもオーエンの幸せを願っています」
シリは言葉を選んで伝えた。
「はい」
オーエンは微笑んだ。
けれどその微笑みは、少しだけ痛みを孕んでいた。
やがて帰路につく時間が来る。
険しい林道を並んで走る馬上。
風に踊るシリの髪。笑う横顔。
──いつから、だったのか。
もし「理想の女性は?」と問われたなら、オーエンはきっとこう答えるだろう。
「強さまで含めて、彼女です」と。
気がつけば、どうにも抗えない渦に巻き込まれてしまった。
かつてジムが言っていた言葉が脳裏をよぎった。
『嫌いという感情は、意識し続けないと得ないもの。恋は不思議だ』
おそらく・・・あの時から・・・いや・・・もっと前からなんだろう。
シリを激しく嫌っていた時から・・・蟻地獄に落ちてしまう蟻のように恋に落ちていたのだ。
ーーこの想いは・・・おそらくジム以外は誰も気付いてないだろう。
オーエンはフッと苦笑いをした。
自覚した想いは、一生懸命に隠しながら忍ばねばならない。
気づかないふりをしていた想いは、秋の風にさらわれていく。
それは、ワスト領にとって最後の平和な秋だった。
ブックマークをしてくれた方、ありがとうございます涙
雨日の地域は雪が降っていますが暖かい気持ちになりました。ありがとうございます。
次回ーー
11月、レーク城に冷たい風が吹く朝。
ハチミツを味わう子どもたちの笑顔の中、シリの胸には小さな不安が芽生えていた。
そしてその日、霧の向こうから現れたのは――久しく姿を見せなかったトナカ。
再会の温もりと、戦の影が、静かに重なり始めていた。




