手の傷と心のとげ
夏の終わりが近づき、ロク湖から涼しい風が吹くようになってきた。
短い夏を惜しむように、シリは馬に乗って出かける準備をしていた。
目的は、熟れたブラックベリーの収穫。
「重臣と一人、同行をお願いしたいのです」
その言葉に、グユウの眉がわずかに動く。
「重臣と2人でか・・・」
グユウの表情には明らかな不満が浮かんだ
「ええ。その他にオリバーと荷物を持ってもらう家臣が必要です」
カツイの息子、14歳のオリバーは弓矢が上手い。
ブラックベリーを摂る時の天敵 ムクドリを仕留めてもらうつもりだった。
「その・・・侍女や女中ではダメなのか」
グユウはシリが男性と出かけるのが面白くないらしい。
「馬に乗れる女性は私しかいません。
レーク城の重臣が忙しいのなら・・・オーエンに頼みます」
「オーエンはダメだ」
グユウは椅子から立ち上がって反対した。
「なぜ、オーエンがダメなのですか?」
不思議そうな顔をしたシリに見つめられ、グユウはうつむく。
ーー家臣に、ヤキモチを焼いているなんて思われたくない。
「変なグユウさん」
微笑むシリを見つめた後に、グユウは歩いてシリの元にむかった。
「オレが行く」
結局、シリとグユウは、弓を背負ったオリバーと荷物持ちの家臣を連れて、4人で城を出発した。
「グユウさんがそのような事をしなくても良いのに・・・。忙しいのでは?」
馬を走らせながらシリは話す。
「気分転換に丁度いい」
グユウは表情ひとつ変えずに答えた。
「ここよ」
シリは馬を止めて案内する。
シリが馬を止め、棘の茂みを指差す。
黒く光る実が、太陽に照らされて甘く輝いていた。
「これを干しておくと、冬の間も楽しめます。
ブラックベリーのコンポートはユウの好物です。ひょっとすると・・・ウイも好きかもしれません」
シリは微笑む。
嬉しそうに話すシリを見つめながら、グユウは黙って実を摘み始めた。
その手の甲に、いくつもの小さな傷があることに気づく。
――これは、棘に触れた痕。
彼女の手荒れの原因にグユウは気がついた。
少し離れた場所でオリバーはムクドリを撃っている。
打ち落としたムクドリと矢を撤収するために、もう1人の家臣が動いている。
「よく見つけたな」
グユウは、ブラックベリーを見つけたことを言っている。
相変わらずグユウは口下手だった。
「ええ。オーエンと乗馬した時に偶然見つけたのです」
わずかな言葉でグユウの意図を把握できるシリは、微笑んで答えた。
「オーエンと・・・乗馬」
その名が出た途端、グユウの手が止まる。
ーーそう言えば、以前、彼女がそんなことを話していたような気がする。
「グユウさん、手の動きを止めたらダメですよ」
彼女の指摘で我に返ったグユウは、辿々しく再び摘み始める。
「ワスト領ではブラックベリーを食べる習慣がなかったのですね。
オーエンに食べさせたら美味しかったみたいで驚いていましたよ」
シリは微笑みながら摘んでいく。
「食べさせた・・・?」
グユウの手は再び止まった。
「ええ」
「どんな食べさせ方だ」
真っ直ぐな瞳でシリを見つめた。
ーー今日のグユウは本当に変だ。
「信じてくれなかったので、無理やり口に入れました」
シリはイタズラっぽく笑い、今度はグユウの口元に黒い実を押し当てる。
仕方なく食べると、弾けるような甘さが口の中に広がった。
グユウは呆然と立ったまま、彼女を見つめた。
ーー確かに、この食べさせ方はオーエンじゃなくても驚く。
「シリ・・・」
こめかみを揉んで頭痛を堪えるような仕草をしながら、グユウはため息をつく。
「グユウさん、お味が気に入りませんでした?」
「・・・いや違う」
グユウが深く長いため息をついた。
「なんですか。言いたいことがあるのなら、はっきりと話してください」
「いや」
いつも以上に短いグユウの返答に、シリは首を傾げる。
長い髪を一つに束ね、男装している彼女は家臣の前では無防備すぎた。
ーー男を煽るな。
そんな事を言ったら嫉妬しているようでみっともない。
いや・・・実際に嫉妬しているのだ。
ーーみっともない。
「夜に鬱憤をはらす」
グユウは小さな声でつぶやいた。
もちろん、その声はシリには届かない。
◇
帰り道。
籠にはたっぷりと実が詰まり、シリの頬は満足そうに紅潮していた。
「どうした?」
「今日は良い日でした。グユウさんと長く過ごせました」
微笑みながらシリは答える。
その言葉に、グユウの顔がわずかに赤く染まる。
その夕暮れ、ふとシリが南の空を見やった。
思わず、シリは手綱を引いた。
「キヨが移動している・・・」
「あの方角は・・・ミヤビに行くのか?」
グユウが首を傾げた。
「そのまま消え失せればいいのに」
シリの言葉には強い嫌悪が滲んでいた。
「・・・日が暮れる。そろそろ帰ろう」
グユウの声で、シリはゆっくりと我に返る。
「明日の夕食はチキンパイになりますね」
「あぁ。シンが喜ぶだろう」
「皆で食べましょう」
穏やかな会話の中、シリの心には小さなざわめきが残っていた。
楽しい一日だった。
けれど――何かが、始まる気がする。
そう思えてならなかった。
次回ーー
城門へ駆け込むシリの姿を見送りながら、
オーエンの胸に、名もつけられないざわめきが残った。
戦いの火種が迫る中――
妃と重臣の心の距離もまた、静かに揺れ始めていた。
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