政略結婚 ほぼ初対面の人と初夜
「黙ってグユウ様に身を任せれば良いのです。そうすれば上手くいきます」
初夜の直前、エマは真剣な表情でそう言った。
だが、シリは浮かない顔をしていた。
夜空には半月が静かに浮かび、ロク湖がその光を受けてほのかに輝いている。
今日は初夜——夫婦として迎える、最初の夜だった。
真っ白なパジャマに着替えながら、シリは思う。
青い瞳と金の髪が、白い布地に映える。
薄暗い室内でも、その姿はぼんやりと光を帯びて見えた。
パジャマは脱がせやすいよう、留め具が最小限にされていた。
心配そうな顔のエマは、なおも忠告を重ねる。
「グユウ様は一度ご結婚された方ですから、流れはご存知でしょう。シリ様は静かにしていればいいのです。・・・くれぐれも、口にはお気をつけくださいね」
思ったことをすぐに口にしてしまうシリの癖を知っているエマは、特にそこを強調した。
「励んでください」
不満げな顔を浮かべるシリの背を、エマはそっと押して寝室へ向かわせた。
寝室には、誰もいなかった。
だが、初夜には“見張り役”がいる。
ベッドの両脇に置かれたチェスト。
一見、ただの家具に見えるそれは、実は中が小部屋になっており、エマとジムがそれぞれ潜んでいた。
二人は夜明けまで待機し、初夜が「滞りなく」終わったかを確認するのだ。
シリは深いため息をついた。
ーー1週間前、兄に乱暴された。
あの夜の恐怖と痛みが、また繰り返されるのだろうか。
しかも、今度は“監視つき”で。
用意されたベッドに腰を下ろす。胸が重く、呼吸が浅くなる。
扉が静かに開いた。
グユウが入ってきた。
背が高く、整った姿は白のパジャマもよく似合う。
だが、相変わらずの無表情。視線は合わない。
ベッドに座った彼との距離は、端と端。
これから一つになるというのに、心も体も遠い。
「式のときは、助かった」
先に口を開いたのはグユウだった。
投げるような言い方に、シリは一瞬きょとんとする。
「・・・指輪」
思い出した。
挙式の際、グユウが間違えて中指に指輪をはめかけたのを、シリがさりげなく薬指に導いた。
そのことを言っているのだ。
「いえ、気にしないでください」
グユウの返事は、短く一言。
「そうか」
会話はそれきり途絶えた。
——本当に、この人は人と話す気があるのだろうか。
グユウは背を向けたまま、ベッドに座り続けていた。
沈黙に耐えかね、シリは思いきって彼の隣に腰を下ろす。
「あの・・・お名前、どうお呼びすれば良いのでしょうか。お館様? ご主人様? グユウ様? いろいろ考えてみたのですが」
視線を向けても、彼は相変わらず正面だけを見ている。
ややあって、ようやく一言。
「グユウで良い」
「えっ、呼び捨てはさすがに・・・。それでは家臣の目もありますし、『グユウさん』で、よろしいでしょうか」
ーー返事はない。
もう一度、静かに問いかけた。
「・・・よろしいですか? グユウさん」
その言葉に、グユウがゆっくりと顔を向けた。
相変わらずの無表情。
だが、瞳の奥がわずかに揺れている。
そして、わずかに赤い頬。
まるで間違い探しをするように、シリは彼の表情を見つめる。
その瞬間、顔が近づいてきた。
目と鼻の先に、端正な顔立ち。
シリは慌てて目をぎゅっとつぶる。
唇が、一瞬だけ触れ合った。
ぎこちない、たどたどしい触れ合い。
だが確かに、グユウの唇は乾いていて、少し硬かった。
そのまま、シリはそっとベッドに寝かされた。
金髪がシーツの上にふわりと散らばる。
グユウが上にのしかかり、唇がシリの首筋に落ちる。
身体が固まる。
熱い吐息が肌を撫でた瞬間——7日前の記憶が蘇る。
あの夜の、痛み。怖さ。
声を上げても、兄はやめてくれなかった。
今また、同じことが起きるのか。
初めて会ったばかりの男に、身体を預けるのか。
恐怖に、全身が硬直する。
呼吸が荒くなり、手が震え、涙がこぼれる。
——ダメだ。やめて、とは言えない。
私は妃なのだから。
このまま抱かれなければならない。
ぎゅっと目を閉じた、そのとき。
ふっと、重みが消えた。
「え・・・?」
グユウが、シリの身体から離れていた。
彼は無表情のまま、じっと見つめている。
「・・・あの、続きをしないのですか?」
思わず訊ねてしまった。
その途端、顔が熱くなる。
まるで、自分が求めているみたいじゃないか。
「今日はやめておこう」
「な、なんでですかっ?」
ーーまた余計なことを言ってしまった!
しばし、沈黙。
「・・・疲れているだろう」
「私は、疲れていません!」
シリは勢いよく身体を起こす。
ベッドに横たわったままのグユウが、無表情で見上げる。
「怖がる女は、抱けない」
「怖がってません。私は、平気です!」
涙をこぼしながら、シリは訴えた。
その姿に、グユウは少し驚いたように目を見開く。
「泣くほど怖がる女は、抱けない」
繰り返すように、そう言った。
「泣いてません!!」
必死の否定。
だが、説得力はない。
誰が見ても、シリは泣いていた。
ーー自分でも分からない。
怖くて泣いているのか。
兄との記憶に縛られているのか。
拒まれた悔しさなのか。
緊張の反動か。
何が理由か、分からない。
グユウはシリを見つめ、ふう、と長く息を吐く。
「わかった。お前は泣いてない。オレは疲れた。一緒に寝よう」
そう言って、シリの腕を取り、ベッドへと寝かせた。
彼の手が、そっとシリを抱き寄せる。
「何もしない。寝よう」
「・・・私、眠くないです」
拗ねたような声で、シリが言う。
「そうか」
短い返事。
グユウから漂う、清涼な木のような香り。
——嫌いじゃない。むしろ、好きな匂い。
彼の胸の温もりを背中に感じながら、
眠くない。
疲れていない。
私は、平気だ。
そう何度も言った。
・・・けれど、気づけばシリは、深い眠りに落ちていた。
次回ーー
初夜は何もなく終わった。
だが翌朝、シリの前に現れたのは鍛錬に励む夫と、
そして――幼い泣き声だった。




