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妻の望みと夫の約束

「これは・・・売れると思います」

カツイはおずおずと口を開いたあと、ふにゃりと独特の笑顔を浮かべた。


「えっっ・・・あれが・・・?」

シリは思わず聞き返した。


あの軟膏が、金になるなどと考えたこともなかった。


「あの軟膏は効きます。矢が刺さったけれど化膿しなかった」

オーエンが左腕をさすりながら話した。


「あぁ。俺もこの前は助かった」

ロイは脇腹を撫でた。


「シリ、薬草の在庫は十分にあるか?」

グユウが静かに質問をする。


「あります。この夏、たくさん採りました。全てアルコール漬けにしています」

シリは驚きを隠しきれないまま答えた。


「それなら、軟膏を販売しよう。ワスト領の特産にする」

グユウは迷いなくそう言った。


「皆さん、どう思いますか」

ジムが重臣達に意見を促す。


ジムが重臣たちに視線を送ると、皆がうなずいた。


異論はなかった。


「よし、明日は城下町の商人を呼ぼう。

ジム、そうだ。いつも戦場に着いて来るあの3人だ」

グユウがジムに伝える。


「承知しました。それでは、冬の間に軟膏作りを行い、来年の夏にはアオソで糸を作りましょう。

冬の間は争いがないので、戦費を蓄えて備えましょう」


会議は終わった。

それも思いもよらない方向で話が進んだ。



「信じられないわ」

暖炉の火が揺れる寝室で、シリはぽつりとこぼした。


「軟膏がお金になるなんて」


ふたりは並んでソファに腰掛け、串に刺したパンを火であぶりながら食べていた。


「これも軟膏か?」

グユウはローテーブルに置いてある陶器の入れ物を手に取る。


「・・・それは違います。エマが私の手荒れのために作ったハンドクリームです」


シリが答えると、グユウは蓋を開け、中を覗き込んだ。

白くとろみのあるクリームが、器の縁までなみなみと満ちていた。


「まるで使ってないじゃないか」


「ええ・・・。つけようとするのですが毎回忘れてしまうのです」

シリは決まりが悪そうに話す。


「手を出せ」


「え?」


「いいから」


ため息まじりにクリームをすくい取ると、グユウはシリの手をそっと取った。

大きな両手で包み込むように、ゆっくりとクリームを塗っていく。


「グユウさん、そんなこと・・・自分でできますから・・・」


慌てて手を引こうとするシリに、グユウは静かに言った。


「これぐらい、させてくれ」


優しい眼差しが、火のゆらぎに照らされていた。


炉の熱と共にクリームの香りがたちのぼる。


「このクリームの香りは・・・」


「カモマイルです。優しい香りですよね」


大きなグユウの手の温もりに、シリの声は柔らかくなる。


「・・・すまない」

グユウは荒れて硬くなったシリの手を握りながら、切なそうに声をかけた。


シリが顔を上げると、グユウの黒い瞳は切なそうに揺らめいていた。


「グユウさん、どうしたのですか?」



「シリには、豊かな暮らしをさせたかった。

なのに・・・今のワスト領じゃ、何一つ望みを叶えてやれてない。

ドレスも、化粧品も、宝石も・・・」


シリのことを思えば思うほど、その無力さが胸に迫る。


「ここで暮らすよりも・・・豊かな領に嫁いだら、社交界の花形になっているだろう・・・」

グユウはシリを見つめながら、結婚してから何度も思ったことを口にした。


「グユウさん」

シリは笑って、そっと言った。


「豪華なドレスや宝石は、生家で20年間経験しました。その時より、今の方が幸せですよ」

シリはグユウの瞳をのぞきこむ。


「しかし・・・」

グユウは納得できない表情をする。

籠城の準備に追われていなければ手荒れもしていないだろう。


「今まで、私が着飾りたいと話したことはありますか?」

シリはグユウに微笑む。


「・・・ない」

グユウは思わず吹き出した。


確かにシリは服飾に興味がない。

宝石も持っているけれど、結婚式以来つけてない。


「でも・・・望んでいる事はあります」

シリは手を引っ込めようとした。


だが、グユウはその手をしっかりと掴んで離さなかった。


「なんだ。言ってみろ。・・・オレにできる事があれば」

グユウは緊張した顔で質問をする。


暖炉の火影がシリの背景を照らすように踊っていた。


シリは居心地悪そうに指を動かした後に、覚悟を決めて堰を切ったように話す。


「ソリに乗ってみたいです。それで温泉に行きたい。

冬の散歩も行ってみたい。

毎晩、子供達を一緒に寝かしつけたい。

手にクリームをつけてほしい・・・寝るときはそばにいてほしい。

あとは・・・春になったら一緒に乗馬をしたい」


グユウは、少しだけ目を丸くして聞いていた。


それは、どれもとてもささやかで、けれど胸を打つ願いだった。


「・・・それが望みなのか」



「はい。春に開戦してから・・・そういう時間がなくなりました」

シリは潤んだ目で答える。


そうだった。


ウイを出産してから七ヶ月、争いは止むことなく、ふたりの心も暮らしも削られていった。


「シリ・・・春の乗馬は、もしかしたら難しいかもしれない。戦が始まれば・・・」


「それでもいいんです。冬のあいだだけで」


「約束する。冬の間はシリが望む事をする」

グユウは微笑んでシリの目を見つめた。


「本当ですか!!」

シリは目を輝かせた。


「あぁ。それで良ければ」

グユウはシリを抱き寄せた。


「それが1番の望みです」

グユウの腕に包まれながらシリは微笑んだ。




炉の炎が穏やかに揺れる寝室。

金色の髪が枕の上に散り、シーツのなかでシリはグユウに抱かれて眠っていた。


ふと気配を感じて目を開けると、グユウの顔がそこにあった。


その瞳は、夜の闇のように深い黒色、

他の人には決して見せない慈しみの色を浮かべていた。


「私・・・」

力のない声を発しグユウを見つめる。


いつの間にか眠ってしまったようだ。


「シリが寝ている間に雪が降り始めた」

グユウはシリの額に落ちた髪を優しくかきあげた。


「どうりで・・・すごく静かだと思いました」

カーテンの隙間から、しんしんと降る雪を見つめた。


「初雪ですね」


グユウは頬に手を添え、額に唇を寄せた後、もう一度抱きしめて口づけをした。


「身体が冷たい。寒いか?」

陶器のようにひんやりとしたシリの背中をさすりながら優しく聞く。


「グユウさんがいれば大丈夫・・・」

冷たい頬をグユウの暖かい胸に寄せた。

グユウから漂う木のような清涼な香りと心音を聞く。


静かな夜だった。


深い冷たい冬の雪が訪れ・・・近いうちに風と嵐のたけ狂う夜が来るだろう。

けれど、暖かい炉がある部屋でグユウと過ごせる。



争いが始まったら、こんな風に幸せを感じる時間はないと思っていた。


それは違った。


ーー幸せは、手を伸ばせば、すぐそこにある。


「・・・冬が、一番好きな季節になりそうです」


目を閉じながら、シリはそうつぶやいた。


明日からは、軟膏作りの日々が始まる。


戦費を補うための、大事な冬の営みだ。


でも今夜だけは――ただ、幸せだった。




ブックマークを入れてくれてありがとうございます。

嬉しくて小躍りしました。

良い週末をお過ごしください。


次回ーー

「それがワスト領のためになるのなら」


冬を前に、城内は軟膏作りで再び活気を取り戻す。

戦費を稼ぎ、領を守るために――妃が動き出す。



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