16-4
常夜は素早く自分のスマートホンを取り出すと、画像フォルダに入っていた湯池莉子の顔写真を表示した。
死体の顔は時間の経過によって肉が下がっているが、画像と比較すると、眉の形や顎のラインが確かに一致している。
髪の長さも同じだし、埋まっていた死体が湯池莉子であるのに間違いはなさそうだった。
どうせどこかで自殺でもしているんだろうと思ったら、まさか殺されて埋められていたとは。
死体を起こしてみると、頭の後ろがへこんでおり、血の塊が付着していた。
他に目立った傷痕はないから、この頭部の傷が致命傷になったのだろう。
後から殴られたか。
はたまた頭を掴まれて打ち付けられたか。
どちらにせよ、彼女の死が単なる事故ではなく、事件であるのは確かだった。
千博がまじまじと死体の――湯池莉子の顔を見ながら言う。
「俺の記憶が間違ってなければ、姑獲鳥は彼女と同じ顔をしていたと思います」
千博の記憶が間違っていたことはないから、姑獲鳥は湯池莉子が変じたものに違いないだろう。
姑獲鳥は妊婦しかなりえない妖怪だから、湯池莉子が姑獲鳥になったということはつまり、彼女は妊娠していたということになる。
「そんな……、湯池さんて、まだ中三でしたよね……?」
信じられないという口ぶりで、花山が呟いた。
純朴な彼女が疑うのも無理はない。
だが湯池莉子が殺されて埋められた事実をかんがみると、彼女は実際に妊娠していたと考えるのが一番自然だった。
「オレは本当に妊娠してたと思うぜ。湯池莉子が妊娠してたんなら、彼女がいま埋められてるのも合点がいくだろ」
「……どうしてですか?」
「だって中三が妊娠なんてどう考えても困りモンだろ。相手の男が殺して埋めたんだよ」
妊娠したガキが殺されて埋められたのなら、犯人は十中八九胎児の父親である。
偏見かもしれないが、鳴郎は自分の推理に自信があった。
一同はまさかと言いたげな顔だが、鳴郎は彼女らが何か言う前に言葉を続ける。
「あと忘れてっかもしれねぇけどよぉ、いまは湯池莉子を殺した犯人より千博のことだろ? 水子は成仏したのかよ」
鳴郎が千博の背中を見ると、水子はまだ彼にしがみついていた。
花山は母親の死体を見せれば成仏すると言っていたが、どうやら見立てを誤ったらしい。
彼の様子からして順調に水子は重くなっているようだし、穏便には解決するのは無理だろうと思った。
鳴郎は自分の指先を突き破るようにして、黒い爪を伸ばす。
周囲の光を吸い込み、黒光りすらしないほど、闇に塗りつぶされた爪だ。
物理と霊魂の間にあるこの爪なら金棒と違い、霊である水子を切り裂けるはずだった。
鬼に殺された霊はまず極楽には行けないが、この際仕方がない。
「千博、コイツをあの世へ送るぞ」
「……ダメだ。まだ待ってくれ」
「テメェ、それ本気で言ってんのか?」
「頼む。俺はまだ平気だ……」
千博の息が荒い。
鳴郎が花山を見ると、彼女は申し訳なさそうに首を横に振った。
霊の専門家の彼女といえど、もはや他に策がないようだ。
鳴郎は爪をはやした右手を振りかぶる。
千博がなんと言おうと水子を切り裂くつもりだったが、キクコの放った一言に鳴郎は手を止めた。
「この子はね、おとーさんに会えばいなくなるよ」
キクコは状況にふさわしくないご機嫌な笑みを浮かべながら、身体を揺らしていた。
彼女が怪異に関することで、答えを誤ったことは一度もない。
彼女が嘘をつかないことも知っている。
だが大切な友人の命がかかっているがゆえに、それでも鳴郎は聞かずにはいられなかった。
「どうして分かんだよ」
「それはね、この子はわたしと同じだから」
「同じ? 全然違うだろうが」
「同じだよ。生きたいって思ってるの。だから同じ」
「生きたい」という言葉を聞いて、鳴郎は社から聞いたキクコの過去を思い出した。
キクコの母親は、キクコを妊娠中に首をくくったそうだ。
彼女の母親がどんな人間だったのか。
どうして自殺したのかまでは詳しく聞いていない。
とにかくキクコがまだ胎にいるときに、彼女の母親は死んだそうだ。
己の生に必要不可欠である母が死んだと悟った時、胎内にいたキクコはなにを思ったのだろう。
(生きたい、か……)
恐怖と絶望をその性質とする赤鬼、鬼灯キクコは、人としてこの世へ生まれる前に鬼になったと聞いている。
あくまでも推測だが、彼女は鬼になれなかったら水子の霊として現世を彷徨う立場だったのだろう。
だから彼女は千博に憑いている水子と自分が同じだと言ったのではないか――確証は持てなかったが、キクコの出した答えは正しいだろうと鳴郎は思った。
「けど父親が誰かなんて分かんねぇだろ。分かるとしても、調べるのに時間がかかりすぎる。間に合わねぇぞ」
「……俺なら大丈夫だ」
「そんな青い顔して言われても説得力皆無なんだよ!」
「なにか手掛かりはないのか……?」
「ここにあるのは死体だけだ。証拠品もなにもまったくねぇ」
警察なら死体についた指紋などで犯人を特定できるかもしれない。
しかし警察に通報して捜査結果を待つとなると、やはり時間がかかりすぎてしまう。
千博の容態を見ると、もってもあと一日。
自分としても気が進まなかったが、千博の命を考えると、ここで水子の霊を切り裂くしか道はなさそうだった。
だが再び黒い爪をとがらせる鳴郎に常夜が言う。
「待って鳴郎。ひょっとしたら手掛かりがあるかもしれないわ」
常夜曰く湯池莉子には同じバトミントン部に所属する親友がいたそうだ。
彼女から話を聞けば父親のことが分かるのではないかと、常夜は考えているらしい。
「でもその親友って、失踪の心当たりがないって証言した親友と同じヤツだろ? あてになるのかよ」
「なにか知っていても、警察には話さなかったのかもしれないでしょう? 可能性があるならやってみてもいいんじゃないかしら」
「話を聞くなら明日になるぜ。それまでにコイツが持つか?」
千博を見ると、彼は座り込みながらも大丈夫だと目線で言っている。
大した強がりだと思った。
本当は今すぐ投げ出したくなるくらい辛いのだろう。
「このガキ、生きたいだけならどうして重くなって相手を苦しめるんだ? 性格歪んでんじゃねーのか?」
「生きたいからね、重くなるんだよ。生きてる人に憑りついてると、生きたいきもちがどんどん大きくなってね、重くなるの。この子が重いのは生きたいからなんだよ。もうムリだけどね」
キクコの言葉に鳴郎はそれ以上何も言えなくなった。
人間という枠から離れ、生死の概念から逃れたに近い鳴郎でも、人格を持って存在している以上、生きていると言ってもいいのだろう。
生者が自分の力ではどうしようもできない事情で死んだ死者を、一方的に責めることはできない。
ましてや相手は日の目を見る前に死んだ赤ん坊である。
「辛くなったらすぐ連絡しろ。明日は朝一番で湯池莉子の親友に話を聞きに行く」
鳴郎は肩で息をする千博に、それだけしか言うことができなかった。
今の自分にできることといえば、千博が限界を迎えた時に駆けつけて水子を葬ってやることくらいしかないからだ。
常夜が匿名で警察に連絡したところで、今日の部活動は現地解散となる。
己にしかわからぬ重さに苦しむ千博を鳴郎は肩を貸しながら送ってやった。
てっきり夜明け前にSOSが来るかと思ったが、彼の根性と気力はこちらの予想をはるかに上回っていたらしい。
結局連絡は鳴郎が千博を迎えに行ってやるまでなく、彼は息も絶え絶えといった様子ながらも、しっかりとした足取りで玄関を出てきた。
おぶってやろうかというと、彼は恥ずかしいと首を横に振る。
憑りつかれている時間から考えて、全身の骨がきしむほどの重さだろうに、なにが千博を駆り立てるのだろうか。
常夜から湯池莉子の親友のクラスと名前を聞いていた鳴郎は、登校するなり千博を連れて彼女の教室へ向かった。
名前は水原ゆの。
学年は湯池莉子と同じ三年生である。
目的地へ到着した鳴郎が水原を呼ぶと、一人の少女が廊下にいるこちらの顔を見て首をかしげた。
「あの、私が水原ゆのだけど、あなたたち、二年生?」
鳴郎はうなずく。
水原を廊下へ呼び出そうとすると、千博が口をはさんだ。
「ありがとう鳴郎。あとは俺が話すから見ていて大丈夫だ」
「でもお前体が――」
「心配するなって」
千博は水子に憑りつかれているとは思えない、はっきりとした声で言う。
「水原先輩、実は湯原莉子さんの件でお話があるんです」
水原の眉間にしわが寄った。
無理もないだろう。
初対面の人間から、行方不明になった友人の名前を口に出されたのだ。
水原はいぶかしんだようだったが、千博の真剣さが伝わったのか、不信感を見せながらも廊下へ身を乗り出してきた。
さて、千博はどう切り出すのか。
お手並み拝見と見守る鳴郎の前で、彼は口を開く。
「湯原莉子さんが行方不明なのは、水原先輩もご存知ですよね?」
「そうだけど、なにか?」
「湯原莉子さん、見つかりましたよ。残念ながら、亡くなっていましたけど」
水原が目を見開く。
鳴郎もまさかいきなり真実を告げるとは思わなかったので、驚きを隠せなかった。
「ちょっとアンタ、いきなりなに言ってんの!? 」
「嘘は言っていません。たぶん今日の夕刊辺りに出るでしょうし、友人の水原先輩も警察から事情聴取の呼び出しがあるでしょう」
「ふざけないで。アタシもう戻るから!」
腹立たしげな様子で、水原が踵を返す。
いきなり訪ねてきた見ず知らずの男に、いなくなった親友の死を告げられたのだ。
信じろという方が無理な話だろう。
だが教室へ引っ込もうとする彼女の腕を千博がつかんで呼び止める。
「待ってください!」
「やめて! なにすんの! 先生呼ぶからっ!!」
「湯原莉子さんの遺体を見つけたのは俺なんです。彼女は裸にされて、下着姿で埋められていた――犯人にそうされたんです」
「アンタ、頭おかしいんじゃないの?」
「俺はそんなことした犯人をどうしても許せない。水原先輩、犯人の心当たりはありませんか?」
「知らないし、そもそも莉子は死んでないから。離して」
冷たい声で水原が言い放った。
教室前の騒動に、室内にも廊下にも野次馬が現れ始めている。
しかし騒ぎになっても、まだ千博は水原の腕を手放さなかった。
「お願いします。あなただけが頼りなんです」
「だから知らないって言ってんでしょっ!!」
「でも、このままじゃ二人ともあまりに浮かばれない。どんな些細な事でもいいんです。教えてください」
「二人ってどういうこと? アンタ二人も死体見つけたって言うの?」
「そうです。正確には、湯池さんとそのおなかの赤ちゃんを、ですが」
喚き散らしていた水原の動きが、突然止まった。
やがて全身を大きく震わせだし、かすれた声で言う。
「アンタ、本当に莉子の死体を見つけたの……?」
「……はい」
「どうして妊娠してるって……」
「その、遺体のおなかがふくらんでいましたから」
千博の最後の言葉は嘘だった。
湯池莉子の遺体は腹がふくらんでなどおらず、見た目では妊娠しているかどうか判別できない状態だった。
しかし思い当たる節があったのだろう。
千博の言葉を信じたらしい水原は、身を震わせながら地面へ崩れ落ちると、おぼつかない手つきで顔を覆い隠した。
「うそ、うそ、うそ。莉子、幸せになるって言ってたのに」
「心当たりがあるんですか」
「妊娠したから、十六になったら結婚するって。駆け落ちしようって言いに行くって。だから大丈夫だと思ったのに……」
「駆け落ち、ですか」
「ずっと二人のこと応援してたのに。こんなのうそ……」
常夜の予想通り、水原には警察に話していないことがあったようだ。
断片的な言葉から察するに、彼女は湯池の交際相手も、妊娠も、居場所も全部知っていたのだろう。
もっとも居場所は彼女の予想とはだいぶ違う結果になってしまったが。
鳴郎がはっきり話せと詰め寄ろうとすると、千博はそれを目で制する。
「水原先輩、ゆっくりでいいんで教えていただけますか。俺は先輩の味方です」
「莉子は、ずっと、一年から――先生と付き合って――」
「先生とですか?」
「苛原先生……。莉子から告白して、付き合って、妊娠したって一週間前に……」
苛原。
鳴郎の脳裏にあの血走った目が浮かんだ。
まさかここでヤツの名前が出てこようとは、さすがに予想していなかった。
まだ水原一人の証言だが、湯原莉子はバトミントン部部員。
そして苛原はバトミントン部の顧問である。
自分を襲ってきたことも考えると、湯原莉子殺害はともかく、彼が水子の父親である可能性は十二分にあった。
「千博、行くぞ」
しかし千博は水原の横についたまま動こうとしない。
なにをやっているのかと思えば、彼は泣き出した水原の話を聞いているようだった。
背中にはもちろん姑獲鳥の水子が憑りつき、その生の執着がいまにも千博を押しつぶさんとしている。
本当なら、立ち上がって動くことすら相当な苦痛のはずなのに。
彼はなおも他人を気遣おうと、その身を奮い立たせていた。
「妊娠したのは秘密で、莉子が幸せになれるならって、警察に黙ってたのに……。」
「無理しないで。泣きたいなら泣いてください」
「ひどい。こんなのひどすぎるよ……」
湯池莉子が苛原と交際していたことも、苛原の子を妊娠したことも、湯池莉子と水原の二人だけの秘密だったのだろう。
中学生に手を出し、あまつさえ妊娠させるような輩と結ばれたって幸せになれるわけがないのに、水原はずっと二人を応援していたのだ。
鳴郎に言わせれば「少女漫画を読み過ぎたドリーム女」だが、千博は彼女の泣き言を嫌な顔一つせず聞いている。
自分の方がつらいはずなのに、どうしてこの期に及んで彼は他人を思いやることができるのだろう。
優しすぎると鳴郎は思った。
千博はあまりにも優しすぎると思った。
初めて会った他人にさえこんなにも優しくできるのだから、鳴郎はついこんな期待を抱いてしまう。
千博なら、自分のすべてを知ってもなお、ただ純粋に鬼灯鳴郎という存在を受け入れてくれるのではないか、と。
鬼でも神でも悪魔でもなく、拒絶でも理解でも納得でもなく、ひたすら鳴郎という存在を、受け止めてくれるのではないかと――それはあまりにも甘すぎる幻想だった。
だが鳴郎はすぐに己の愚かさを鼻で笑う。
そんなことはいくら千博だってありえないし、そもそも受け入れてもらう必要なんてないのだ。
鬼の精神はたとえ世界中から拒絶されても、孤独で狂ったりしないのだから。
「ぐずぐずしてるんじゃねぇぞ!」
放っておくといつまでも水原の話を聞いていそうなので、鳴郎は無理やり千博を引っ張り出した。
さすがの彼も、抵抗するほどの元気は残っていないようである。
もはや歩くことさえ困難になった千博を半ば引きずるようにして、鳴郎は職員室へ向かった。
千博の苦しみも、あと苛原に会うまでのわずかな時間だ。
しかしもうすぐ始業時間だというのに、苛原の姿は職員室になかった。




