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夢見ノ森怪奇譚  作者: 種子島やつき
第十二話 恋文に生きる
47/69

12-5

 恋文とは相手に自分の思いを伝えるために書かれる手紙である。

その思いが相手に届かなかった時、手紙に込められた感情はある妖怪を生む。

それが文車妖妃――手紙の思いは時に妖怪として実体化し、恋しい相手の元へ現れるのだ。

千博のところに現れた小倉も、川崎美緒のラブレターから生まれた文車妖妃だった。

信頼しているはずの友人によって破かれた手紙は、思いを伝えるために、小さな姫君となって千博の所へやってきた。

そして破かれた手紙を読んでもらえた彼女は、生まれた目的を果たし、この世から泡のように消えた。

小倉にとっては、この上なく満足な死に方だったのだろう。

しかし千博はまだ納得できていなかった。

彼女が消えたのは、文車妖妃として生まれた以上仕方のないことなのかもしれない。

だがどうして小倉はこの世に生まれたのか――つまり、なぜ川崎美緒の手紙は小野沢美伊奈によって破かれたのか。

その理由が知りたかった。

これはほんの数日の間に生まれて死んだ、小倉の人生に対するけじめでもある。


 なんとしてでも小野沢から事の真相を聞き出さねばならない。


 千博は明日、朝一で彼女を問い詰めることに決めた。

幸いメールアドレスは小野沢から押し付けられて知っている。

「どうしても話したいことがあるから、明日七時に学校の昇降口で待っていてほしい」

そんなメールを送ると、なにを勘違いしたのか、小野沢はハートマークをつけてOKを出してきた。

翌朝、千博は待ち合わせ時間よりも早く登校し、まだ誰もいない昇降口で彼女を待ち構える。

小野沢は約束の時間より少し先にやってきた。

その顔はこちらの内心も知らずウキウキ顔だ。

千博が声をかけると、彼女の顔がパッと明るくなる。


「あっ氷野くん! 待たせちゃってごめんね?」

「別にかまわないよ」

「お話って何かなぁ? ここじゃアレだし、ミイナの教室に行って――」

「いや、ここでいい」


 千博が語気を強めて言うと、小野沢はきょとんと首をかしげた。

その小動物のようなしぐさが、今はなぜか気に障る。


「それでお話ってなに? こんな朝早くに呼び出したんだから、きっと大切なことなんだよね……?」

「ああ、とても大事な話なんだ」

「ミイナ、なんだかドキドキするー」


 彼女が微笑みながら自分の胸に両手をあてる。

しかしその顔は、すぐに凍りつくこととなった。

千博が、破かれた川崎美緒の手紙を――破片をテープでつなぎ合わせた川崎美緒の手紙を――彼女の鼻先に突きつけたからである。


「小野沢さん、この手紙知ってる?」


 小野沢は千博の問いにしばらく呆然としていた。

だがすぐ大げさに首を横に振る。


「え……? なに……? ワタシそんな手紙知らないよ?」

「でもこの手紙、君の名前が出てきてるんだけど。俺に渡すよう、君に頼んだって書いてある」

「ミイナ分かんない。そんな手紙知らないもん」

「実はこの手紙、ゴミ箱から出てきたんだ。一体どうして捨てられたんだろうな? 小野沢さん分かる?」

「知らない! ミイナ知らないもん!」


 なかば叫ぶように声を上げると、彼女は顔を覆いながら激しく頭を横に振った。

黒いツインテールが、まるで鞭のように揺れる。

その痛々しい仕草に、普通の男だったら追及の手を緩めてしまったかもしれない。

しかしいまの千博の心は氷像のように冷たく、微動だにしなかった。


 顔を両手で覆ったままうつむく小野沢に、千博は感情の見えない声で続ける。


「そういえば小野沢さん、バレンタインデーの日、俺にお菓子くれたよね。あの時の袋とこの手紙、同じ模様してるんだけどどうしてかな?」

「分かんない……。 分かんないよぅ……。」

「多分だけど、この便せんは菓子袋とセットになって売ってたんだと思うんだ。でもどうしてこれ、手紙だけで捨てられてたんだろう。どうせ捨てるんだったらお菓子と一緒に捨てるもんだと思うんだけど。不思議だよな」

「うぅ……。うぅ……」

「小野沢さんは、この手紙と“偶然”同じ模様のセットを買ったのかな?」


 千博が水を向けてやると、小野沢はすがり付くようにして食いついてきた。


「そう! そうなの! 美緒の手紙と袋が同じ模様だったとは偶然なの! 手紙のことはワタシなにも知らない! これは偶然なの!」


 その必死ぶりは、千博に軽蔑の念を起こさせるのに十分であった。

だがそんな思いなど微塵も見せず、千博はさらに彼女へ問う。


「そうなんだ。じゃあついてきた便せんは?」

「それは……。書こうと思ったけど、氷野君に直接渡すことにしてやめたから」

「そうか……。手紙のこと知らないのに、誰が書いたのかは知ってるんだな」


 まるで猛禽のように鋭い鳶色の瞳が、小野沢を射抜いた。

やってしまったと直感的に気付いたのだろう。

彼女は無言で目を見開いたまま、小刻みに震えていた。

沈黙が続いても責めることはせず、ひたすら彼女の次の言葉を待つ。

辛抱の甲斐あって、再び小野沢が口を開いた。


「ちょっ、やめてよ氷野君。知ってるのは、いま氷野君が見せてくれた手紙に名前が書いてあったからだもん。変なこと言うのはやめてよ……」

「名前が書いてあった? これのどこに?」


 もう一度千博は手紙を小野沢に見せてやる。

テープで復元された、川崎美緒の手紙。

さほど注意しなければ、完全に修復されたかのように見える。

だがこの手紙には、ひとつだけ元通りになっていない箇所があった。

そう、送り主の名前が書いてあるはずの場所だけ、ピースが埋められていなかったのである。


「小野沢さんには悪いが、送り主の所はわざと直さなかったんだ。こうなると思ってたからな」

「ひどい……。ワタシのことだましたの……!?」

「それはこっちの台詞だ。お前は川崎さんから手紙とお菓子を受け取って、手紙だけ破いて捨てたんだろう。それでお菓子の方は俺に渡したんだ。さも自分が作ったように嘘をついてな」

「ちがう……。ちがう……。」

「そう言うんだったら、どう違うのか納得いく説明をしてくれないか?」


 小野沢は黙ったままだった。

しかし言葉の代わりに嗚咽をもらし始め、やがて嗚咽は大粒の涙となる。

幼児のように泣きじゃくり出した彼女は、悲痛な声で叫んだ。


「氷野くん! これはワナなの! 川崎さんがワタシにイジワルしようとしてるの!」

「……そうなのか?」

「うん。ワタシ女の子と仲良くしようとしてもすぐ嫌われちゃって……。川崎さんも氷野くんのこと好きなのに、ワタシが氷野くんと仲良くしたから嫉妬して、ワタシをハメようとしてるの……」

「そうか……」

「前のグループにいた時もそうだったの。女の子はみんなワタシにイジワルする……。氷野くん、ワタシのこと信じて……。ミイナ嘘ついてないから……! 」


 はらはらと真珠のような涙をこぼしながら、小野沢がこちらへすがり付いてくる。

まるで弱った子猫を彷彿とさせる素振りだった。

人の保護欲をそそるような彼女の様子に、千博は少し声音を和らげる。


「小野沢さん……今まで大変だったんだね」

「うん。氷野くんに会うまで、ミイナずっとつらかった」

「小野沢さんの気持ち、よく分かったよ。俺、小野沢さんのこと信じる」

「ホントに……?」

「ああ。お菓子もおいしかったし。アレの名前、なんて言ったっけ……?」

「もうっ、千博くん! クッキーだよっ」


 今までの涙はどこへやら、小野沢が飛び切りの笑顔で笑った。

なので千博も飛び切りの笑顔で答えてやる。


「ちがう。アレはガトーショコラだ」


 ただし声は獣のうなり声のように低かった。

小野沢が笑顔のまま硬直している。

千博の言葉に嘘はなく、あの日小野沢から受け取った袋にはガトーショコラが入っていた。

一体どうして小野沢はあの袋にクッキーが入っていたと思ったのだろうか。


「そんな……。ウソっ……。美緒クッキー作るって言ってたのに……」


 こちらが聞くより早く、呆然自失となった彼女が独り言で自白してくれた。

事前にクッキーを作ると川崎美緒から聞いていた小野沢は、袋の中身を確かめずに千博へ渡したのだろう。

だが川崎美緒は気が変わったのか、クッキーではなくガトーショコラを袋に入れていた。


(しかし、こうもあっさり尻尾を出すとはな……)


 千博も、まさか袋の中身そのものを間違えるとはさすがに思っていなかった。

当初の計画では、菓子の名前を聞いた後、詳しい作り方を尋ねてボロを出させるつもりだったのだが。

川崎美緒の思わぬアシストによって、計画は予想以上に上手くいったようである。


「どうする小野沢。もう言い逃れはできないぞ」


 語るに落ちた彼女は、こちらを向いたまま呆けたように突っ立っていた。

もはや嘘も言い訳も泣き落としも千博には通用しない。

小野沢はすべてを自白せざるを得ない状況へ追い込まれていた。


 千博は怒りの色をあらわにしながら、事の核心に迫る。


「どうして川崎さんの手紙を捨てたりしたんだ」

「だって……」

「俺が手紙を見せても、お前は泣いて嘘を吐くばっかりだ。俺はお前が今までにやったこと全部知ってるからな。前のグループで嫌われたと言っていたが、それは友達の好きな人にちょっかい出したからだろう。同じこと何回もやってるらしいな」

「ちがう……。それは……!」

「否定しても無駄だ。部活のメンバーが、昨日の夜くわしく当事者に聞いてくれたよ」


 実を言うと千博は、確実に小野沢を問い詰めるため、昨日の時点で部活の仲間に情報収集を頼んでいた。


「宮前さんと、原田さんだっけ? 小野沢に好きな人取られそうになったのは」


 これは彼女らと親交のある花山が仕入れてくれた情報だった。

具体的な名前を出されて、小野沢が息をのむ。


「その二人の時も、相手に手作りのお菓子を渡したらしいな。でもそれも全部川崎さんが作ったヤツだった。部長が家政科部の友達に聞いてくれたよ。小野崎は他人にやらせるばっかりで、自分じゃロクな物を作れないって。いつも川崎さん任せだったって話じゃないか」


 快く協力してくれた仲間たちに、心の中で礼をしながら、千博は一気にまくしたてた。

もはや言い逃れのできない小野沢は「だって……」「でも……」と、意味もなく繰り返している。


「昨日俺に作ってくれた弁当だって、本当は自分で作ったヤツじゃなかったんだろ? あの味、どこかで食べた味だと思ったけど、あとで思い出したよ。コンビニ弁当だ。あれ、タブンイレブンの弁当を移しかえたんだろ? 分かってるんだよ。こっちには」

「だって……だって……」

「だってばっかり言ってないで、いい加減観念して本当のこと話してくれないか? どうして川崎さんの手紙を捨てた? どうして手紙を捨てて、俺に嘘ついたりしたんだ?」

「それは、氷野くんのことが……」


 小野沢が言いかけたが、千博はそれを途中で遮った。


「俺が好きだったから、なんて言うのはやめてくれよ。何度も同じようなことしたのは知ってるんだ。そんな手はもう通用しない」


 小野沢が黙った。

千博が予想した通りの言葉を吐くつもりだったらしい。

どうしたら次から次へと嘘ごまかしが言えるのか、怒るよりも不思議になるくらいだった。

先回で最後の手段も封じ込めらえた小野沢は、うつむきつつも千博のことを睨み上げている。

怒りたいのはむしろこちらの方だと思っていると、彼女が呟いた。


「だって、生意気だったんだもん」


 なにが、と言う前に、彼女が続ける。


「だって、ブスのくせに恋愛しようとか言って生意気だったんだもん。好きになっちゃったとかほざいてさ、地味ブスのくせになに言ってるのってカンジ。少女漫画の読み過ぎだろって。ぶっちゃけ鏡見ろっていうか――」


 聞くに堪えない悪口が続きそうだったので、千博は結論を急いだ。


「だから手紙を破いて捨てたっていうのか?」

「そうだよ。だってミイナ、ムカついたんだもん。知ってる? アイツもう中学生のくせに、いまだに少女漫画のふろく使ってるんだよ。ありえないよね? そんなヤツが告白とか百年早いもん。そもそも告白される奴の気持ち考えたことあるのってカンジだし。地味ブスに告白されるなんて正直罰ゲームだよね」


 八方ふさがりになって、観念したのだろうか。

それともヤケクソニなっているのだろうか。

小野沢は意外と饒舌だった。

彼女の身勝手な言い分に千博は怒鳴りたくなったが、冷静になれと自分に言い聞かせる。


「……小野沢がどうして手紙を捨てたのかは分かった。でもどうして作ったガトーショコラは俺に渡したんだ? 一緒に捨てればよかっただろ?」

「それはなんていうか、格の違いを見せつけたかったんていうか。ほら、アイツには手の届かないオトコでも、アタシならすぐゲットできちゃうってトコ、見せたかったんだよね。まあ身の程を知れってこと?」

「その格下が作ったお菓子を利用してか?」

「べつにいいじゃん。アイツが得意なことスイーツ作りしかないんだもん。むしろアイツの価値がスイーツ作りだけってカンジだし。あの影キャラと付き合うの、それくらいメリットないとやってられないもん」

「前のグループの女子にも、そんな考えで同じようなことしたのか?」

「あ、それは――」


 小野沢はなんの悪びれもなく「チョーシのってるからシメてあげただけ」と答えた。

千博は開いた口を閉じるのを忘れる。


「調子のってるから、好きな人を取ったって……?」

「そうだよ。たいして可愛くもないくせにイケてる軍団気取りでさ。部活で日焼けしてんのに、化粧水とか塗ってマジ笑えるんだもん。ミイナと比べれば、しょせん威張ってるだけのブスだってこと、分からせてあげたくて」

「分からせた結果が、ハブにされたんじゃないか」

「アイツらにハブにされたって別にいいもん。クラスの男の子はミイナのこと可哀想って思ってくれてるし、センセイはミイナがいじめられてるって思ってるもん」


 「ミイナ、男の子にすごく人気あるんだよ」――そう言いながら笑う彼女に、千博は戦慄した。

もし千博が女性だったら、小野沢に対し恐怖より怒りを覚えたかもしれない。

だが男性である千博は、見下した友人への嫌がらせのために、好きでもない異性へ嘘と媚を繰り返す彼女が不気味に見えて仕方なかった。

小野沢は追い詰められている立場にもかかわらず、こちらへ向かって余裕たっぷりに言う。


「氷野くんもバカだよね。手紙捨てたくらいでこんなことしてさ」

「お前――! 人がどんな気持ちで手紙を書いたと思ってるんだ。それに川崎さんの手作りを、自分が作ったって嘘ついただろ!」

「そんなのたいしたことないじゃん。それに誰が作ったって、フツーの男の子なら美緒に渡されるより、ミイナに渡された方がうれしいはずなんだけどなぁ。氷野くんて、もしかしてブス専?」

「小野沢、いい加減に――」

「ミイナねぇ、将来アイドル目指してるんだ。せっかくミイナと付き合えるチャンスだったのに、氷野くん残念だったね」


 「誰がお前なんかと付き合うか」と叫びたかったが、ぐっとこらえる。

小野沢はこちらを小馬鹿にするような微笑を浮かべると、ひらひらと手を振った。


「言いたいことがないなら、ミイナもう帰るからね。あ、ミイナの悪口言っても無駄だよ。男の子も先生もみんなミイナの味方だもん。そうだ、ミイナ氷野くんにイジメられたって言っちゃおっかなー?」

「言いたければ言ったらどうだ?」

「氷野くんイジメられちゃうかもよ? 学校これなくなっちゃうかも」


 さも面白そうに、手を叩いて小野沢が笑い出した。

自分の底意地の悪さを吹聴されても、周囲は信じないとタカをくくっているのだろう。

「馬鹿だ」と千博は思った。

なんのためにこちらが「昇降口」で話をすることにこだわったのか、彼女は最後まで分からなかったらしい。

もっとも、途中でこちらの意図に感づいたら、ベラベラと内心を吐露することもなかっただろうが。


 耳障りな笑い声を上げる彼女へ、千博は静かに言う。


「小野沢、笑うのもいいが、少しは周りの迷惑を考えろ」

「は? まだ七時過ぎだよ? 誰もいるワケ――」


 そこまで言った彼女は、周囲を見回して絶句した。

なぜなら少なくない数の生徒たちが、こちらを遠巻きに見守っていたからだ。

様子から察するに、小野沢のクラスメイトもちらほら混じっているようである。


「え? なんで……? どうして……?」

「なんでもどうしても、運動部が朝練に来たからに決まってるだろ? あ、家政科部は朝練がないから分からなかったか」

「え? じゃあ、 ワタシの話は……」

「途中からまる聞こえだったよ。昇降口はよく声が響くからな」


 こうなったのは偶然ではなく、すべて千博の作戦であった。

小野沢が男子と教師を味方に付ける狡猾なタイプだということは、花山越しに得た情報によってすでに知っていた。

誰もいないところで問い詰めたら、きっと彼女は被害者面をしてこちらを悪者に仕立て上げるだろう――そう最初から千博は予想していたのである。

しかし人がいない場所がだめなら、人がいる場所ならいいのかというと、そうもいかなかった。

人のいる場所で彼女が本音を話すはずがない。

なら、どうすれば小野沢から答えを聞き出し、なおかつ自分の身を守ることができるのか。

考え込んだ結果、出た答えは「早朝の昇降口」であった。


 まず朝練の生徒がやって来る少し前の昇降口に小野沢を呼び出し、無人だと油断させる。

油断しているうちに彼女を興奮させ、周囲に注意を向けなくなるよう仕向ければ後は簡単だ。

やがて朝練へやって来た生徒たちが、野次馬として自然とやり取りの証人になってくれる。

問題は、周りを見失うほど小野沢が興奮するかどうかだったが、手紙を見せたら思いのほかうまく運んだ。

なにせ、破いてゴミ箱に捨てたはずの手紙を、なぜか千博が持っていたのだ。

驚いたり興奮したりするなという方が無理な話だろう。


「まったく、朝練の生徒が来ないギリギリの時間を見計らうのに結構苦労したよ」


 千博が苦笑しながら言うと、小野沢は顔面蒼白のまま床にへたり込んだ。

周りの野次馬から、ぼそぼそと彼女を非難する声が漏れ聞こえる。

クラスメイトもいるようだし、もはや彼女に騙される人間は誰もいないだろう。

この先長い小野沢の中学生活を考えると哀れ極まりなかったが、少しも同情する気は起きなかった。


 彼女のくさった性格とプライドのために小倉は生まれ、そして死んでいったのだ。

千博にとってその事実だけで、全ての情を捨て去る理由になる。


「さようなら小野沢さん。二度と話しかけないでくれ」


 千博は吐き捨てるように言うと、昇降口に背を向けた。











 「川崎さん! 川崎美緒さん!」


 夕陽のにじむ放課後。

昇降口を外に出てすぐの、タイル張りになっている広い場所――。

そこで川崎美緒を見つけた千博は、とっさに彼女へ声をかけた。

本当は明日にする予定だったが、運よく出会えたので今すませてしまうことにする。

呼びかけられた川崎美緒は驚いた様子で足を止めた。


「あ……。氷野くん――!」

「あの、川崎さん。キミの手紙、読ませてもらったよ」


 言いながら、千博は自分が緊張しているのだと感じていた。

そう、千博がいま川崎美緒に声をかけた理由は他でもない。

彼女にもらった手紙の返事を、伝えるためであった。


 手紙を読まれたと言われた川崎美緒は、戸惑った様子で目をキョロキョロさせている。


「でっ、でも、あの手紙は小野沢さんに捨てられたんじゃ……」


 今朝の騒動は、彼女も知る所になっていたらしい。

どこまで話を知っているかは分からないが、手紙は千博に読まれることなく捨てられたと思っているのだろう。


 不思議がる川崎美緒に、千博は笑いながら首を横に振る。


「たしかに捨てられたけど、俺の友だちが見つけてくれたんだ」

「そ、そうだったんだ……。じゃあ……」


 彼女の顔が火がついたように真っ赤になった。

夕陽に照らされているせいか、なおさらに頬が色づいて見える。

動揺する様子を目の当たりにしたせいか、千博もさらに緊張してきた。


「それで手紙の返事なんだけど……」


 こちらが返事をする立場なのに、なかなか言い出せず途中で口ごもる。

だがいつまでも濁しているわけにはいくまい。

小倉の顔をまぶたの裏に描いた千博は、意を決して声を出した。


「あの、川崎さん。俺でよかったらお友達に――」

「おーい! 川崎! いたいた! 川崎川崎ーっ!!」


 しかし千博の言葉は、少年の甲高い声にさえぎられた。

声のした方を見ると、野球部のユニフォームを着た丸坊主の少年が手を振っている。

千博は彼のやんちゃそうな顔に見覚えがあった。

多分彼は、川崎美緒に出会ったあの日、彼女に仕事を押し付けて歓談していた少年だ。

彼女に何の用だろうと思っていると、少年がこちらに向かって走り寄ってくる。


「よかった―。てっきり先帰っちゃったかと思ったよ」

「や、山田君? 部活はどうしたの?」


 どうやらこの少年、名を山田というらしい。


「それがよー、二年のマネージャーの先輩が、今日の騒ぎ知っててよー。川崎を一人にするなって帰らされたんだよ」

「え? どうして?」

「ああいう女は逆恨みして川崎になにするか分かんないって、女のカンだってよ。だからその、オレが家まで送ってやれって――」


 山田の顔が先ほどの川崎美緒に負けず劣らず真っ赤になった。

千博は展開についていけず、交互に二人の顔を見やる。


「あの川崎さん、この人は……」

「あ、この人は山田君って言うんです」

「たしか君に荷物押し付けてたよね……?」

「で、でも、山田君に悪気はなかったんです。トイレ行ったらすっかり荷物のこと忘れちゃったんだって。アタシが泣いてるのを見つけた時も、ずっと話を聞いてくれたし。悪い人じゃないから――」


 川崎美緒は照れた様子で山田に視線をやった。

山田も日に焼けた鼻を赤くして彼女を見詰める。

目があうと、二人は焦った様子で反対方向に目をそらした。


(おい、これどういうことなんだ? おい!!?)


 千博は内心で激しく問いかけるが、当然ながら答えは帰ってこない。

やがて山田が意を決したように川崎美緒の袖口をつかむ。


「い、いい加減帰ろうぜ! 今日寒いしよぉ」

「や、山田君!?」

「先輩にゃ逆らえねーし、しょうがないから川崎はオレが送ってやるよっ!」

「だ、だけど……」

「送らなかったら校庭百周って言われてんだよ!」

「え、そうなのっ!?」


 驚いてはいたが、まんざらでもない顔であった。

山田に引っ張られながら彼女は千博へ言う。


「氷野くんありがとう! さようなら!」


 二、三度手を振ると、川崎美緒は山田と一緒に消えていった。

彼女の気持ちは、もう手紙を書いた時とは別ものになっているのだろう――今の光景を見た千博はそう悟った。

手紙を捨てられたことを知らなかった彼女は、いつまでも返事をくれない千博より、そばにいた優しい少年の方を向くことにしたらしい。


 千博はぼんやり前を眺めながら、心の中に空洞が広がっていくのを感じていた。

別に心変わりをした彼女を、責めようとは思わない。

手紙を書いた時の彼女の気持ちは、きっと本物だった。

だからこそ捨てられた手紙から小倉が生まれ、千博のところへやって来たのだ。

ただ、その本物の気持ちが、数日の間に変わってしまっただけである。

彼女はなにも悪いことなどしていない。

千博への思いを吹っ切り、新しい恋を見つけた川崎美緒を、誰が責めることなどできるだろうか。

しかしそれを分かっているはずなのに、千博は広がる空しさを押さえることができなかった。


 帰る気にもなれず、下校する生徒の中、一人で立ち尽くす。

しばらくそうしていると、キクコを連れた鳴郎が通りがかった。


「おい、なにこんなトコで突っ立ってんだよ」

「ああ、鳴郎か……」

「なんだよボーっとして、何かあったのか?」


 怪訝な顔をする彼に、千博は呟く。


「ひょっとしたら俺、失恋したのかもしれない」

「……はぁ!?」


 すぐにどういうことだと詰め寄られたが、千博は答えず、苦笑いだけを浮かべていた。


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