9-3
後崎家は庭に屋根付きガレージのついた、ごく一般的な一戸建てだった。
おそらく夢見の森タウンができた当初に建てられたのだろう。
赤茶色の屋根と白い壁は少し薄汚れていた。
周りの家と大して変わらない大きさに見えるが、母一人子一人には少々広すぎたかもしれない。
今はもって家の中が広くなっているのだと思うと、千博は胸の奥が痛くなった。
表札には「後崎美奈子・愛美」と刻まれている。
「ここで間違いないです。呼び鈴を押したら俺がお線香を上げに来たといいますから。みんなも愛美さんと面識があったことにしてください」
「数回挨拶をしただけだけど、年が近いからあまりに気の毒で――」とでも言えば、家の中に入れてくれるだろうか。
嘘を吐くのは心苦しかったが、これは他ならぬ愛美自身のためであった。
千博は後ろに並ぶ部員一同を、ざっと確認する。
肝心の花山は、降霊に挑むのに若干緊張している面持ちだった。
「大丈夫? 花山さん」
「だっ、大丈夫です」
「じゃあ押すよ?」
しかし千博が呼び鈴に触れる前に、キクコが「待って」と声を出した。
振り向くと、この場に不釣り合いな楽しそうな笑みを浮かべて立っている。
「? どうしたんだ?」
「……だから別にいいよね」
「ん? 今なんて言った?」
「だって娘のためにしたことなんだもん。別によかったもんね」
「なに言ってるんだ鬼灯」
らちが明かないので、千博は無視してインターホンを押す。
一回ボタンを押しただけで、、数回チャイムの鳴る音がした。
少し間を置いてから、玄関ドアが開いて美奈子が出てくる。
彼女の姿を見た千博は、思わず言葉を無くした。
悪霊に憑かれた美奈子が、この間見かけた時よりも激しくやつれていたからだ。
全身は肉を無くして皮ばかりとなり、顔もしゃれこうべと見まごうばかりである。
正直、よく動いてられるなと感心してしまった。
美奈子の惨状に、千博は挨拶も忘れて呆然とする。
「……何か、ご用ですか?」
低く、かすれた声で美奈子が言った。
「すみません! あのっ、娘さんのお線香を上げさせてもらえないかと!」
あわてて言葉を口にしてから、千博は自己紹介をし忘れたと気づいた。
「申し遅れました、僕、氷野千博と申します。三件左隣に住んでまして、その、いつも母がお世話になっております。あのぉ、娘さんとは何度か挨拶をしただけなんですけど、年が近いから何もせずにはいられなくて――。後ろにいる友だちも、娘さんとは何度か――」
まくし立てるように言うと、美奈子の目玉が千博の背後へ走った。
彼女は痩せすぎたせいで眼球が突出しており、まさしく目玉というほかない双眸である。
美奈子は表情を変えぬまま様子を探っていたが、ある一点を見たとき、突然驚愕の表情へと変わった。
顎が外れるほど口を開き、全身を大きく打ちふるわせる。
転げ落ちそうなほど見開かれた眼球の先には、赤い髪をたなびかせた鬼灯キクコがいた。
キクコは先程と同じ笑みを美奈子へ向けながら言う
「もー、だから言ったのに」
キクコの声からは、明らかに喜色が滲んでいた。
「だから本当にこれでいいのか聞いたのに。後悔しないって聞いたのに。アナタ結局後悔してるの」
美奈子は意味不明なキクコの言葉を黙って聞いていた。
しかし体は痙攣のように激しく震えている。
一体何が起こったというのか。
「娘死んじゃったね。でも仕方ないよね。娘のためだもんね。でも娘死んじゃったね」
キクコはからからと笑っていた。
理由は分からないが、おもしろくておもしろくて仕方ないという様子だった。
本当なら殴るでもしてキクコを止めるべきなのだろう。
しかし彼女からにじみ出る空気の異様さに、千博の体が動かなかった。
笑うキクコと震える美奈子の対峙はしばらく続いたが、やがて美奈子の方が悲鳴を上げる。
それと鳴郎が叫んだのはほぼ同時だった。
「おい! 千博! そいつがひき逃げ犯だっ!!」
千博は考えても彼の言葉を理解できなかった。
「……? なに言ってるんだ? お前……」
「だからこのババァが犯人だって言ってるだろ! 最初は変わりすぎて分かんなかったけど、コイツがひき逃げ犯なんだよ! コイツが後崎愛美をひき殺したんだっ!!」
耳をつんざくような声で美奈子がやめてと叫んだ。
鳴郎は彼女の叫びも構わず庭先に押し入ると、ガレージの前へ立つ。
最初気にしなかったが、後崎家の屋根付きガレージは、段ボールで中が見えないよう塞がれていた。
ガムテープでつなぎ合わせた急増の壁を、鳴郎は容易に引き裂いて露わにしていく。
「おい! やめろ! なにしてんだよ!」
「予想が正しけりゃここにあるんだよ! あのピンクの車がなっ!!」
彼が手当たり次第に段ボールをちぎったおかげで、ガレージの中はすぐに見えた。
真っ先に目に入るのは、鮮烈なピンク。
ガレージの中には、鼻先がひしゃげたピンクのセダンがあった。
警察でなくても一目でわかる事故車である。
そしてピンクのセダンは鳴郎が描いた犯人の車そのものだった。
部長が信じられないという風に半笑で呟く。
「え……? じゃ、なに? このお母さんは自分の娘をひき逃げしちゃったってこと?」
「そういうことだよ」
「で、でもなんで……」
「一言で言うなら、ここがクソッたれな夢見の森だからだ。詳しく言うなら、あの交差点、街灯が切れてたんだよ。暗いから人影に気付かずはねて、誰かも分からず逃げちまったんだろ」
美奈子は涙と鼻水をまき散らしながら泣きわめいていた。
しかし千博は物的証拠がそろってなお、こんな偶然を信じることができない。
「鳴郎、今暗かったっていったよな? でもお前はちゃんと車の特徴も、犯人の顔も見たじゃないか! 暗かったんなら、お前だって何も見えないはずだろ!?」
「あのな、オレとキクコをテメーらと一緒にするなよ。暗闇なんてネコより見える」
「じゃあ、この人はホントに……」
「信じられない」と口の中で呟いた。
あろうことか、後崎愛美をひき逃げした犯人は彼女の母親自身だったのだ。
鳴郎の話と美奈子の様子から察するに、故意でひき殺したわけではないのだろう。
運悪く深夜の交差点で人をはね、運悪く街灯が切れていて、運悪く被害者が自分の娘で――。
残酷すぎる偶然に、千博は吐き気を催した。
まさかこんなことが、この世の中で起きるとは。
千博は愕然としながら美奈子の方へ視線を映す。
骨と皮の体で泣き叫ぶ姿は、死力を尽くして泣いているいうにふさわしい光景であった。
その背後に娘の愛美が立っているのは、母への思慕か、それとも憎しみか。
ただ彼女は黙ったまま、虚のような目で母親を見据えていた。
「どうして、ひき逃げなんて……」
千博が呟くと、美奈子は泣くのをやめる。
「だって仕方がないじゃない!」
彼女の反論は痩せきった体とは思えない声量だった。
盛り上がった眼球ををらんらんと光らせながら、美奈子はたじろぐ千博へ詰め寄る。
「うっ後崎さん! 落ち着いて!」
「落ち着けるわけないでしょう!? 何も分かってないガキのくせに!」
「でもひき逃げなんて……」
「うるさい! こっちの苦労も知らないで! 娘のためにはそうするしかなかったのよ!!」
怒りに我を忘れているのだろう。
美奈子は床に膝を突き、息も絶え絶えになりながら怒鳴り続けていた。
その鬼気迫る様子に千博は黙るしかなかったが、鳴郎は冷めた顔つきである。
いや、冷めたというより、はっきり侮蔑の表情が浮かんでいた。
「私は夫が死んでからずっと娘が大事で――! ずっと頑張って育てて! 私が捕まったら娘がどうなるか分かるでしょう!? 捕まるわけにはいかなかったのよ!!」
震える声で叫ぶ美奈子を、背中の愛美が見下ろしている。
鳴郎が吐き捨てるように言った。
「だからひき逃げしたって?」
「そうよ! だってしょうがないじゃない。事故なんか起こしたら、仕事クビになって刑務所行きよ? そしたら娘が生活できなくなっちゃうでしょう?」
「あのな、仮に相手が死んでも、余程悪質じゃなきゃ刑務所には入んねーよ。仕事はともかくとしても――」
そこまで言ったところで、鳴郎は何かに気付いたようだった。
一度歯ぎしりすると、唸るように呟く。
「――テメェ。やっぱり酒飲んでやがったのか」
事故の翌朝、鳴郎は犯人の顔が赤かったと言っていた。
飲酒運転中の事故なら、刑務所に入れられるという美奈子の懸念も妥当だろう。
千博は唖然として鳴郎と美奈子の顔を見比べた。
「おかしいと思ったんだよな。たしかに街灯は切れてたが、人間が人に気付かねぇ暗さじゃなかった。あそこは見通しがいいし、酒に酔ってて気づかなかったのか」
「取引先の接待があったのよ? わかる? 営業の大変さ。私は娘のために稼がないといけないのよ。じゃないと娘が私立に通えないの」
「だったらタクシーや代行運転とか頼めばいいだろうが」
「だって車で来ちゃったし、それに私お酒強くて、いつも大丈夫だったのよ。娘にも早く会いくて……。いつもは平気だったのに――なのに――どうして!!」
美奈子は再び地面に突っ伏して慟哭した。
娘のためにひき逃げをしたと思ったら、まさかその娘を轢いていたなんて。
真実を知った時の彼女の心情を考えると、千博は眩暈がした。
美奈子は己が身に起きた不幸を、咽び嘆いている。
「どうしてこんなことになっちゃったのよおおぉぉっ! まなみっ、愛美のためにママ逃げたのに! どうして家に帰ったら誰もいないの!? なんでコンビニ行くって書置きがあるの!? あの車――あの車は愛美が好きな色なのに! どうしてこんなことになったの!? どうしてっなんで愛美が死ななきゃならなかったのぉ!?」
「テメェがひき逃げしたからだろうが」
「なんで? 私は愛美のために! 愛美のために!」
「娘のためなら、他がどうなってもかまわねぇのか?」
「やめろ鳴郎――!」――千博は思わず彼を止めにかかった。
だが常夜が首を横に振りながら千博を制する。
「残酷だけど、鳴郎の言う通りよ。この人は、被害者がどうなろうと関係なかった。だからひき逃げなんかしたのよ」
「でも常夜先輩!」
「そもそも、この人飲酒運転じゃない。身勝手な理由で酒を飲んで、身勝手な理由で被害者から逃げて。考えてみなさい。もし、被害者が『娘じゃなかった』ら、千博君はこの人を許せる?」
「え?」
「死んだのが彼女の娘じゃない他の少女だったら、彼女の言い分を許せる?」
ひき逃げで、高校生の少女が死んだ。
加害者は飲酒運転で、そのため横切った少女に気付かなかったらしい。
少女の死因は出血多量だった。
すぐ病院へ連れて行けば助かったのに、加害者は目撃者の制止を振り切って逃げた。
逃げた動機は、娘のためだという。
一人で育てている娘のために、被害者を見捨てて逃げたという。
「俺は……許せません」
千博は答えた。
「だって動機があまりにも身勝手すぎます。娘のためだからって、被害者が死んでいいはずがないでしょう」
「そうね。でも彼女は死んでいいと思ったのよ」
死んでもいいと思った結果、自分の娘が死んだ。
命よりも大事な娘を、自分が殺してしまった。
美奈子は体力が底を尽きたのか、床に這いつくばっている。
千博は彼女の元へしゃがみこんだ。
「後崎さん、自首しましょう」
「どうして……」
「自分娘とはいえ、人をひき殺したことは事実ですから……。それに警察だって捜査してますし」
「ダメよ……。そしたら娘の供養ができなくなっちゃう……」
美奈子は力なく首を横に振った。
しかし眼球だけはギラギラと焼けつくような光を放っている。
「自首なんてしたら愛美に毎日お線香上げられなくなるわ。そんなのイヤよ。耐えられない……」
「いえ、でも……」
「それに愛美はね、昔からさびしがり屋なの。毎日お供えできなくなったら、天国の愛美が悲しむわ……」
美奈子は愛しい娘がとうに天国へ旅立ったと思っているらしい。
しかし当の愛美は血でずぶぬれの姿のまま、美奈子を見詰めていた。
その痛ましい姿は、他でもない、自身の母親によって作られたものである。
千博には黙って見据える彼女の瞳が、美奈子を睨んでいるようにも感じられた。
なぜかは分からないが、美奈子が自首しない限り愛美は成仏しないだろうと確信めいた思いを抱く。
自首するつもりなんて、毛頭ない美奈子。
もし千博の直感が正しいなら、愛美はいつまでも彼女へ憑りつくことになりそうだった。
だが今の美奈子にこれ以上悪霊を憑りつかせている余裕はない。
「花山さん、無理やりでも愛美さんを成仏させられないかな?」
しかし差し迫った事情など分かりきっているはずの花山は、首を横に振った。
「わたしは、いやです」
「どうして」と千博が聞き返すと、彼女は珍しく鋭い視線を美奈子へ向ける。
「だってあの人、さっきからずっと自分のことばっかりじゃないですか。わざとじゃなくても、娘はものすごく痛い目に遭って死んだのに……。一言も謝ってないじゃないですか……」
「それは……」
「それにさっきから、ずっと見てて思ったんですけど……、あの人、全然自分が悪いって思ってないですよ。どうしてどうしてって、ひき逃げしたこと、まったく悪いと思ってません」
花山がこんな刺々しい口調になるのは、出会って初めてだった。
千博は言われて初めて、美奈子が謝罪の言葉を一度も述べていないと気づく。
口に出さないだけかとも思ったが、花山の言うとおり、美奈子に自分が悪いと思っている素振りは全く見えなかった。
「だけど、内心では反省してるかもしれないじゃないか」
「だったら、なんで自首しないんですか? 警察の人だってずっと捜査してるんですよ? なのに、毎日お供えできなくなるからイヤって……。我がまますぎるじゃないですか」
「でも……」
「それにあの霊は、母親にひき逃げされて、痛い思いをして死んで、なのに謝ってももらってなくて……。あんまり可哀想すぎますよ。だから未練で成仏できないのに、それを無理やりあの世へ行かせるなんて……。そんなの、わたしにはできません」
それから花山は貝のように口をつぐんでしまった。
たしかに彼女の言うことも一理ある。
実の母にひき逃げされて死んで、おまけにその母親は自分の不幸を嘆き、自首すらしようとはしない。
いくら大好きな母親だったとしても、これでは未練が残って成仏できないのも無理なかった。
しかし千博はだからといって、美奈子を切り捨てることはできない。
「部長……」
何とか花山を説得してもらえない部長の顔をうかがうと、彼女は力なく笑った。
「まぁ、イッコちゃんも頑固だよね~。せっかく稀代の霊媒師になれる才能があるのにもったいないっていうかさ。ほら、霊媒師はいつも生きてる人間の味方しないといけないじゃん?」
「……はぁ」
「イッコちゃんはつい死者の側に感情移入しちゃうからね。霊媒師としては失格。でもアタシも今回はイッコちゃんの味方かな?」
「えっ!?」
「だってそうでしょ?」
何とかしてくれと常夜を見ても、彼女は目をそらすばかりだった。
キクコには、はなから期待していない。
戸惑って千博が辺りを見回していると、鳴郎が静かに言う。
「もうあきらめろ、千博」
「だが鳴郎!」
「さっき常夜が言っただろ? もし死んだのが加害者の娘じゃなかったら、テメーは同じこと言えたか? 加害者が可哀想だから無理やり成仏させろって言えたか?」
「それは……」
千博は押し黙った。
もし美奈子に憑りついているのが、彼女の娘ではなかったら。
美奈子にひき逃げされて殺された、まったく無関係な他人だったら――。
加害者のために無理やり成仏させろなんて、絶対に言わなかっただろうと千博は思った。
それどころか自業自得とすら言ったかもしれない。
「やっぱりそうだろ? いいか千博、被害者が加害者の娘だからややこしくなってるが、これはただのひき逃げ事件なんだよ」
「でも、俺はやっぱり気の毒で――」
「甘いんだよテメェは。たしかに、一見かわいそうに見えるかもしれない。けどな、今コイツは誰かに味あわせようとした苦しみを、自分自身で味わってるだけなんだ。我が子が理不尽にひき殺されるっていうな」
地面に顔をつけたまま延々すすり泣く美奈子へ、鳴郎は容赦なく冷たい視線を向けた。
その瞳は月のない夜のように恐ろしくて暗い。
キクコといい、一体どんな生き方をしたらそんな目ができるのかと思う。
「もちろん、死んだ娘はスゲェ気の毒だと思うぜ? だがこのババァは自分の身勝手の責任を取らされてるだけなんだ。同情の余地なんてねーよ。……少々、直球すぎると思うがな」
言い終わると、鳴郎はもう用はないとばかりに後崎家の敷地を出て行った。
その後にキクコが、部長が、そして花山が無言で続く。
延々とむせび泣く美奈子に千博が動けないでいると、常夜が言った。
「別に、千博君が後崎さんを見殺しにするわけじゃないわよ」
「しかし――!」
「多分だけど、自首すれば娘は成仏すると思う。つまり自首さえすれば、後崎さんは助かるの。自首さえすればね」
「……」
「自分の娘とはいえ、自首することは当然よ。後崎さんは、当然のことさえすれば助かるの」
千博はもう一度美奈子の方を向いた。
彼女はかろうじて聞き取れる声で、「どうしてどうして」と繰り返しつぶやいている。
その姿は、起きてしまった不運すぎる事故へ怒りを抱いているようにも見えた。
少なくとも殺してしまった娘への罪悪感と悔悟は、伝わってこない。
「後崎さんは、自首するでしょうか」
「分からないわ。それは彼女次第だから。もしかしたら先に警察へ捕まるかもしれないし、憑り殺されてしまうかもしれない。でも、それも彼女のした選択よ。少なくとも千博君は自首するように言った。隣人としての責任は十分果たしたと思うわ」
一度千博の方へ振り返りながら、常夜も後崎邸を後にする。
果たして、美奈子は自分から出頭するのだろうか。
それとも、捕まるが先か。
殺されるが先か。
願わくば、捕まるよりも憑り殺されるよりも早く自首してほしい。
千博はそう思いながら、後ろ手に後崎家の門扉を占めた。




