7-2
今日は朝から気持ちのいい快晴であった。
空は眩しいほど青く、空気が澄んでいるせいかスズメの声がよく聞こえてくる。
部屋には「さあ朝」だと言わんばかりに朝日が差し込んでいたが、千博はその中でケータイを見ながら硬直していた。
彼の目に映るのは、件名も本文も完全に文字化けしたメールである。
(なんで全部文字化けしてるんだ……)
千博が今見ている文字化けしきったメールは、昨夜キクコから送信されたものであった。
昨日は文字化けしながらも、とりあえず内容は分かったのに。
どうしても気になって今朝見てみたら、この有様であった。
受信したメールの文字化けが進行するなんて、機能的にあり得るのだろうか。
それに考えてみればみるほどキクコはケータイを持っていなかった気がするし、千博の頭はキクコと彼女のメールのことでいっぱいであった。
しかしいくら気になっても、ずっとメールを見ているわけにもいかない。
千博はケータイをポケットにしまうと、伯母夫婦の手伝いをするため部屋を出た。
朝食の手伝いをしたり、法事のため制服に着替えたりしているうちに、近くに住んでいる親戚が家を訪ねてくる。
訪れたのは、祖母の妹とその娘家族だった。
法事の日程は、まず家にある祖母の仏壇で住職に経を上げてもらい、そのあとまた寺で経を上げてもらう予定になっている。
そのため、この家が参加者の集合場所になっていた。
祖母の妹である田辺ミチコはその娘の由美に支えられながら、ゆっくり仏間へ入って行く。
もうすることもなかった千博も母と兄とともに仏間へ入り、久々に会う親戚と挨拶をかわした。
「あら勝くん大きくなったわねー。千博君もずいぶんイケメンになったじゃない」
「そんなことないですよ由美オバさん」
お世辞なのか本気なのか分からない由美の挨拶を笑って流しながら、千博は由美の娘と息子に目をやった。
確か男の子の方が弘毅で、女の子の方が花蓮といったはずである。
二人ともまだ小学校低学年だが、黙ってきちんと座っていた。
「二人とも大人しく座ってエラいなぁ。えっと、何歳になったんですか?」
「弘毅が三年生。花蓮が一年生よ」
そんな当たり障りのない親戚トークをしながら、千博たちは住職が来る時間を待っていた。
それなりの大人数なので話が途切れることはなかったが、なぜか待っても一向に肝心の住職が来ない。
そのうち大人の一人が伯母に来る時間を尋ねたが、伯母はもう予定の時間を過ぎていると首を横に振った。
今日他に法事がある家もないらしく、事故にでもあったんじゃないかと心配する声も上がる。
しかし由美が「それはないんじゃない」と少し不機嫌そうに言った。
「あの住職、先代が亡くなって跡を継いだら好き放題なんだもん。遅刻なんて当たり前、町で酔っぱらって騒ぎを起こすのもしょっちゅうって話よ」
ミチコが娘の物言いをとがめたが、伯父が「確かにいい噂は聞かないな」と同意した。
ミチコの注意も住職の悪口を否定する言い方ではなく、千博は問題ある人物なのは確かそうだと考える。
結局、住職は予定を三十分以上過ぎてから伯母宅へ現れた。
格好は一般的な僧侶そのもので特に目立ったところはなかったが、なんとなく顔つきがだらしなく、「チャラい今時の若者」という表現を想起させる。
彼は謝るどころかロクに挨拶もせず仏壇の前に座ると、経を唱え始めた。
(なんかいい加減そうな坊さんだなぁ……)
気のせいが経も心が籠ってないような空虚さがある。
住職はがなり立てるような声で一通り経を上げた後、ぺこりと一礼して家を出て行った。
「ちょっとぉ、美千代さん何なのアレー?」
顔をしかめながら由美が伯母に文句を垂れている。
伯母は噂は本当だったとため息をつき、他の大人たちも彼女と同感のようであった。
皆不満を表情に出しつつも、次は寺に移動するため、それぞれ車に乗り込む。
これから千博たち一行が向かうのは木成家代々の墓がある菩提寺で、名前を業庵寺といった。
千博家族は伯父の運転する車に乗って目的地に向かう。
「生前の住職はご立派な人だったんだけどなぁ……。なんせ遅くにできた息子だったからねぇ」
伯父のボヤキを聞いているうちに、寺へ到着する。
車から降りて外の涼しい空気を吸い込むと、千博はふとキクコからのメールを思い出した。
とりあえず今のところ、メールに書いてあったようなことは起こっていない。
何事もないならそれに越したことはないだろうと、千博はあのメールはイタズラだったと思うことにした。
伯母を先頭に寺の境内へ入った一行は、先回りしていた住職に案内されて本堂へと入る。
昔からこの辺りの地域をまとめていたという業庵寺の本堂は、思っていた以上に広くて貫禄のある造りだった。
座敷の広さはおよそ百畳はあり、そびえ立つ柱の向こうには金色に光り輝く仏像がどっしりと鎮座している。
仏像の両脇には供え物が山ほど置かれ、地域住民とのかかわりの深さが嫌でもうかがえた。
一行を案内し終わった住職は、先ほどと同じくろくに挨拶もせず、仏像の前に座ると経を読み始める。
先程は家の中なのでまだよかったが、本堂だと彼のがなり声が反響し、それが千博にとって思った以上に不快だった。
うんざりして前を見つつも辺りに気を散らしていると、そのうち住職の声に混じって妙な音が聞こえるのに気付く。
それは油の切れた歯車や、壊れかけたブレーキの出す音に似ていた。
寺の近くも畑だから、おそらく農業機械の音だろう。
こちらに近づいてきているのか、不快な音は次第に大きくなっていった。
音は時間がたっても途切れることがなく、しまいには経をかき消す勢いで辺りに響く。
いくら近くで作業しているとしても、境内を飛び越えて本堂までこんなに大きく音が届くのだろうか。
不審に思った千博が注意深く耳をそば立たせると、どうも怪音は本堂のすぐ近くでしているらしい。
(境内で工事でもしてるのか……?)
経を台無しにする不協和音に親戚一同がざわつき始めたころ。
外に面した本堂の障子を、サッと大きな影が横切った。
なにかと思った途端、その黒い影が障子に向かって思い切りぶつかる。
障子は外れず持ちこたえたが、黒い影はいったん離れたかと思うと、もう一度障子に激突した。
「ギャアァァ」と経を邪魔していた例の音が、障子一枚隔てたところで響く。
どうもこの耳障りな音は、この黒い影から発せられているようだった。
最初千博はカラスでもぶつかったのかと思ったが、影の大きさからしてどうも違うらしい。
成人男性ぐらいの大きさがある黒い影は、またもや本堂の障子と衝突した。
(ひょっとしてこの影、中に入ってこようとしてるんじゃないか?)
千博の予想は大当たりだった。
四度目の体当たりにより障子が外れると、黒い影がわめきながら本堂の中に飛び込んでくる。
影の正体は黒い巨大な鳥であった。
姿は若干鶴に似ているが、大きさは似ても似つかない重量級である。
「ギャアアア」と甲高い声を上げるくちばしは鋭く、目は橙色に光り輝いていた。
千博はもちろんこんな鳥見たことなかったが、それは周りの親戚たちも同じらしい。
体当たりとともに本堂へなだれ込んできた鳥はまた一声鳴くと、一直線に住職へ向かって飛び掛かった。
とっくに読経をやめていた住職は、黒い鳥にたかられて悲鳴を上げる。
どうも鳥は本気で彼を襲っているらしい。
尖ったくちばしで執拗に顔を狙っているのは、ひょっとしたら目玉をえぐり出そうとしているのかもしれなかった。
このままではマズイ。
そう思った千博は制服の上着を脱いで、鳥に向かって叩きつける。
突かれるのは怖かったが、住職は流血しており、ためらっている猶予はなかった。
しかし払うように上着を振るっても、黒い鳥はこちらに見向きもせずに住職を襲い続ける。
「この鳥っ!!」
とっさに千博はそばにあった木魚のバチを鳥に向かって投げつけた。
バチは見事目標に向かって命中し、怪鳥は叫びながら外へ向かって逃げていく。
またこられたらかなわないと千博は急いで障子を閉めに向かったが、その時とんでもない光景を見てしまった。
今の鳥と同じ黒い怪鳥が、何十羽も空で固まっていたのである。
――コイツらは、今から襲ってくる。
そう告げたのは、千博の生存本能だろうか。
とっさに千博が戸を閉め、つっかえ棒をすると、次の瞬間障子が衝撃で震えた。
恐らく鳥たちは次々障子に向かって特攻を繰り返しているのだろう。
衝撃は休む間もなく続き、このままじゃ持たないと千博は障子を背で押さえる。
幸い、本堂の正面にある入口は、この二枚の障子戸だけだった。
他は全て木の壁でおおわれているため、そこから入ってくることはないだろうが、背中を襲う衝撃はますます強まってくる。
「誰か! 手伝ってください!!」
千博は呆然と固まっている親戚たちに向かって叫んだ。
我に返った伯父が、慌ててこちらに走り寄ってくる。
「右の障子は俺が押さえるんで、伯父さんは左お願いします!」
「分かった」
伯父の登場により負担は軽くなったが、鳥の攻撃は一向に収まる気配を見せなかった。
どうして奴らが本堂に入ってこようとしているのか、理由は全く不明である。
いつになれば、一体どうすれば攻撃がやむのかも、千博には見当がつかなかった。
「千博くん、あの鳥は一体何なんだ?」
「俺にもわかりません」
ただ、普通の鳥でないことだけは一目瞭然である。
扉目がけて突っ込む怪鳥とそれを押さえる千博たちは、こう着状態に陥った。
向こうは疲れ知らずの様子で休みなく障子に突っ込み、けたたましい鳴き声を上げている。
体力的にはまだ余裕はあるものの、障子はいわば薄い木の板。
やがて衝撃が加えられるたびに、亀裂の走る音が聞こえてきた。
このままでは、鳥がなだれ込んでくるのも時間の問題だろう。
何かいい打開策はないものかと千博が思案したが、その時、鳥の鳴き声でも衝突音でもない音が本堂に響きわたった。
半音ずれた音階で「とおりゃんせ」を奏でるソレは、なぜか千博のズボンから響いている。
そういえばケータイをズボンのポケットにしまっていたなと、千博は思い出した。
しかし法事の前に電源は切っておいたし、そもそも「とおりゃんせ」を着信音にした覚えもない。
怪鳥の襲撃に加え、今度は怪現象か。
うんざりしたが、いくらたってもケータイが鳴りやまないので、しかたなく障子を押さえながら電話に出る。
「……もしもし?」
おそるおそる様子をうかがうと、受話器から鈴の転がるような声が聞こえてきた。
「もしもーし!千博げんきー?」
「なっ!? 鬼灯!?」
「そうだよ。キクコだよ」
この明るく愛らしい声は、彼女に間違いない。
驚いたことに、電話をかけてきた相手は鬼灯キクコだった。
知り合いからの電話でとりあえず一安心するが、どういうわけかひどいノイズである。
「ゴメン鬼灯。今電話してる場合じゃないんだ。ノイズもひどいし切るぞ」
「ノイズがひどいのはね、お寺の中だから。それにワタシが電話かけたのはね、千博を助けてあげるためなの」
「助ける?」
「いま千博、おそわれてるでしょ?」
千博は無言で目を見開いた。
どうしてこの少女は、見てもいないのにこちらの状況が分かるのだろう。
そういえば、昨日彼女が警告めいたメールを送ってきたことを思い出す。
「どうして分かるんだ!?」
「どんなのにおそわれてるの?」
「どんなのって、黒い鳥だ。鶴に似てるけど大きい。寺の本堂に入ろうとしてる」
「黒い鳥さん? たぶんソレね、鳥さんじゃなくて妖怪だよ」
「妖怪!?」
「うん。妖怪」
言葉を無くした千博に代わるように、鳥が耳障りな声を上げた。
確かに今対峙している怪鳥たちは、見てくれといい行動といい妖怪じみている。
夢見の森での経験と昨夜のメールのこともあり、千博は怪鳥を妖怪と言われても否定する気は起きなかった。
「妖怪って、どんな妖怪なんだ?」
千博が尋ねると、キクコは世間話をするような口調で答える。
「オンモラキっていってね、お坊さんがちゃんとお経を上げないと、死んだ人の霊が怒ってその妖怪になるの。そんでそのダメなお坊さんをおそうんだよ」
「この寺にその『オンモラキ』が来たってことは、住職がちゃんと経を上げなかったってことか?」
「うん。そーいうこと」
「なにか……。なにか対処法はないのか?」
「別になにもしなくてもいーよ。ダメなお坊さんをつつき殺したら、勝手にお空にかえるからね」
千博はキクコの言葉を理解するのに少し時間がかかった。
それはつまり、住職を見殺しにしろということなのだろうか。
自分でも気づかぬうちに、千博は怒鳴るようにしてキクコへ叫ぶ。
「そんなことできるわけないだろ! 目の前で殺されるのをほっておけるかっ!!」
「じゃあどーするの? 千博もクロみたいに金棒でたたかう?」
「それは……」
「オンモラキはね、徳の高いお坊さんのお経を聞かせればかえっていくよ。でも、いま千博の周りにエラいお坊さんいる?」
千博は住職の方へ視線を向けた。
真っ青な顔をした彼は仏像の裏に隠れて震えている。
「……いない」
「だから大人しく見守っててね。無理にたたかうとケガしちゃうから」
千博はまだ何か言おうとしたが、その前に電話が切られた。
画面を見ると、やはりケータイの電源は切れたままである。
(どういうことだ……?)
にわかに灰色の疑問がふくらんだが、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。
いくらちゃんと経の読めないダメ坊主とはいえ、鳥に貪られるのをだまって見てはいられない。
千博は何か方法はないか考え込んだ。
背中の障子戸は悲鳴を上げ、残り時間が少ないことを必死にアピールしている。
どんな方法を取るにせよ、本堂に籠城することができないのは確かだった。
「どこか、他に頑丈な建物はありませんか――!?」
千博は本堂の一番奥で震えている住職に向かって叫ぶ。
「ほ、本堂の裏口から少し行ったところに倉庫が……」
住職がわななく声で答えた。
「鍵は開いてますか? すぐに扉は空きますか!?」
「た、たぶん……」
「じゃあ、今からそこに逃げ込みます!!」
親戚たちと住職から、どよめきの声が上がる。
もちろん千博だって確実性のない作戦は取りたくなかったが、もう障子戸は限界だった。
このままここにいれば、まもなく「オンモラキ」が室内になだれ込んでくる。
他に取れる方法が見つからなかった。
「でも逃げるったって、ウチのおばあちゃんはどうするの? 足が不自由なのよ!?」
皆が顔を見合わせる中で、親戚の由美が叫ぶ。
「おばあちゃんなら俺が背負って逃げます。この扉はもうダメです」
「でも……。」
「力には自信があります。俺を信じて下さい」
格好いいことを言ったが、本当はオンモラキの狙いが分かった上での発言だった。
たとえ逃げそこなっても、鳥が住職以外を襲うことはないだろう――そう考える自分の冷静さと冷酷さが、少し嫌になる。
「住職さん、いちにのさんで俺たちは扉から離れます。同時に裏口を開けて倉庫へ先導してください。みなさんもすぐに逃げられるように裏口のそばへ。俺たちもすぐ後を追います」
千博が力強く言うと、住職がおろおろしながらうなずいた。
隣で扉を押さえる伯父、は分かったというように目でうなずいている。
障子戸は音から察するに、限界の限界だった。
千博はみんなが裏口のそばに集まったのを確認してから、カウントダウンを始める。
「いち、にの、さん――!!」
千博は叫ぶとはじかれるように扉から離れ、裏口目がけて疾走した。




