3-5
例の保安員が犯行に及ぶだろう場所に張り込み、何か不審な動きをしたら即ケータイのムービーで撮影する。
それが怪奇探究クラブで考え出した、保安員告発のための作戦だった。
変装をしても一か所にとどまり続けるのは怪しまれるので、五分ごとに持ち場を交代するとも決めてある。
狙い通り保安員の女が張り込んだ場所で動くかどうか、動いてもうまく撮影できるかどうか不安はあったが、これしか方法はなかった。
常夜の提案で全員いっぺんにスーパーへ入ることはせず、一組ずつ逐次投入しながら尾行を開始することにする。
最初に千博とキクコの持ち場になったのは、入り口のすぐそばにある、目玉商品を積んだ台の横だった。
幸い時間帯のせいか店内は客でごった返しており、滅多なことをしなければ不審がられることはなさそうである。
「ねぇねぇ、そのホアンインてどんな人なの?」
キクコに聞かれて、そういえば彼女はあの女の顔を知らないのだと千博は思い出した。
おそらく部長は顔を知っている者と知らない者を考慮してペアを組ませたのだろう。
「中年太りしたごく普通の女だよ。他に特徴がないから、説明しても分からないと思う」
「あ、腕にいっぱい口がついてるから、多分あの人かな?」
キクコの指さす先にはここであったが百年目、あの保安員がいた。
顔を知らないキクコでもわかったように、女の右腕には昨日と同じく無数の口が付いている。
口は相変わらず唇を上下させており、周りがうるさくて聞こえないものの、何か喋っていることは間違いなさそうだった。
キクコは耳に手を添えて目を閉じると、何事かを呟き始める。
「今日はいい獲物はいないかしら。あの子供――いや、親がいるからダメか。大人はダメ。子供じゃないと押し切れない。あの小学生は……、今店を出ていくところだ」
「まさか鬼灯、声が聞こえるのか?」
「うん。目を閉じて耳を澄ませれば聞こえるよ」
保安員がいる場所は、ここから辛うじて見えるもののそれなりの距離がある。
その上多くの客で混雑している店内だ。
彼女の常人離れした聴覚に、千博は驚かざるを得なかった。
「お前の耳、一体どうなっているんだ……?」
「あっ、ホアンインさんが行っちゃうよー」
「とりあえず今は何もしないみたいだな」
しかしキクコが聞いたことが本当だとすると、あの女は今日も獲物を物色していることになる。
ひょっとしたら他のペアの所で何かするかもしれないと、千博は小さくなる女の背中を睨んだ。
見えなくなったところで時計を見れば、ちょうど持ち場に着いてから五分が経過している。
次に担当する持ち場は、この間訪れた飲料売り場だった。
ここはやや人が少なめなので、変に思われないよう注意が必要である。
保安員は店内をくまなく見まわっているのだろう。
持ち場に着いてすぐ、再び彼女が隣を通り過ぎた。
すれ違ったのは真横だったので、今度は千博の耳にもはっきりと声が聞こえてくる。
一瞬だったため言っている内容は分からなかったが、それなりに大きな声で口は喋っていた。
「あんなはっきり口があって話してるのに、あの女は全く気付いてないのか?」
千博が独り言のように疑問を口にすると、キクコが青みがかった目をこちらに向ける。
「今はね、口にも声にも気づいてないと思うよ」
「そうなのか?」
「うん。でもね、だんだん気づいていくよ。最初は声から、次に口が見えるようになってね。それから――」
全てを言い終わる前に、キクコは至極嬉しそうに笑った。
まさに破顔したという言葉にふさわしい満面の笑みだったが、千博はその顔になぜか残忍さのようなものを感じてドキリとする。
無邪気で、明るくて、愛おしささえ込み上げてくるような笑顔なのに、胸の奥に冷たい風が流れてくるのは一体なぜだろう。
原因を探るべく彼女の瞳を覗いてみると、そこには夕闇の迫った空のように昏い双眸がある。
彼女が怖い。
千博はどうしてか理由は分からないが、本能的にそう思った。
「どーしたの? 千博?」
不思議そうに尋ねたキクコは、もう怖い笑顔でも昏い瞳でもなくなっている。
千博は背中が冷や汗でびっしょりになっていることに気が付きながら、「なんでもない」と答えた。
ごまかすように時計を見れば、また持ち場を交代する時間になっている。
次の持ち場は、レジ寄りの場所にある酒類売り場だった。
人があまりいないし、千博はともかくキクコはどう見ても未成年なので、いちばん張り込みに気を遣いそうな場所である。
「父親にビールのお遣いを頼まれたものの、銘柄が分からなくて困っている兄妹――という体を装おう」
「ラジャー」
もし店員に何か聞かれたら、いつも父が飲んでいる発泡酒の銘柄を答えて探してもらえばいい。
我ながらいい作戦だと千博は自画自賛しながら張り込みを始めたが、通路が狭くて人が来るたびにどくのが一苦労だった。
そんなことをしているうちに、またもや例の保安員が千博たちの前を通りかかる。
他の組からも連絡は一向にないし、ひょっとして今日はちょうどいいターゲットがおらず、あきらめたのだろうか。
千博は少し弱気になっていたが、保安員は急に早足になったかと思うと、つまみを選んでいる老婦人の背後にはりついた。
おそらくあらかじめ用意していたのだろう小さなスナック菓子を、彼女は開けっ放しになっている老婦人のバッグへ入れる。
その様子を千博は一部始終ケータイのムービーで撮っていた。
老婦人は相当年齢がいっているのか足取りも手つきもおぼつかず、保安員が寄ってきたのにも気づいてないようである。
弱った年寄りなら反論してこず、押し切って罪をを着せられると思ったのだろうか。
だが、証拠は完全に抑えた。
後は保安員が老婦人を万引き犯として捕まえるところを押さえるだけだと、千博は保安員の後を追う。
追いながらふつふつと怒りが込み上げてくるが、そんなマネもここで終わりだった。
何も知らずに老婦人がスーパーから一歩出たところで、保安員が彼女の腕を捕まえる。
「ちょっと、アンタ! 会計してない商品があるでしょう!?」
当然身に覚えのない老婦人は戸惑うが、女は有無を言わさず事務所へ連れて行こうと彼女の腕を引っ張った。
しかし千博は女の行く手を体で遮る。
「そのお婆さんは、万引きなんてしていませんよ」
「はぁ?」
保安員はスーツを着た男が先日の中学生とも気づかず、思い切り怪訝な顔をした。
自分で罪を着せておきながらよくそんな顔ができるものだと、千博は怒るより呆れてしまう。
「そのお婆さんは、万引きなんかしてませんよ。俺、ちゃんと見てましたから」
「アンタ何言ってるの!? コイツは万引き犯よ。ホラ!」
保安員の女は老婦人から無理矢理バッグを奪い取ると、手を突っ込んで先程自分で入れたスナック菓子を取り出した。
彼女があまりに大きな声で叫ぶせいで、周囲には段々と人だかりができ始めている。
女はそら見たことかとスナック菓子を掲げると、千博に向かって突き出した。
「ほら、コレよコレ! この婆さんはこのお菓子を取ったのよ」
「違いますよ。それ、アンタが自分で入れたんだろうが」
「何言ってるの、この商品はこの婆さんが隙をついてカバンに――」
「隙をついてお前がお婆さんのカバンに入れたんだろうが! こっちには証拠もあるんだぞ!」
本当は終始冷静に行くつもりだったが、千博はつい声を荒げてしまった。
憂さ晴らしに反論できないような弱い子供、老人に罪を着せ、人生を滅茶苦茶にしようとするこの女が、どうしても許せなかったのである。
怒鳴られた保安員はまるでこっちが被害者と言わんばかりに、甲高い悲鳴を上げた。
「ちょっと誰か警察よんで! この男頭がおかしいわ!」
「呼ぶなら呼べ! ついでに店長もだ。そうしたら全部お前のしたことを明るみに出してやる。こっちは全部知ってるんだぞ! 中学生に罪を着せて推薦取り消しにしたことも、このお婆さんをはめようとしたことも――! お前は保安員の立場を利用して、人に罪を着せてるんだ!!」
千博が全て言い終わったところで、店長がこの場に駆けつけてくるのが見えた。
こちらの声は全部届いていたのだろう。
店長は愕然とした様子で保安員、老婦人、そして千博たちを眺めている。
「山中君、これはいったいどういうことなんだね」
どうでもいいことだが、どうやら保安員の名は山中というらしい。
千博よりいきなり保安員に疑いの目を向けるところから察するに、店長は薄々何かを察しているらしかった。
花山をはめようとしてから、今日までまだ二日しか経っていない。
いくらターゲットを選んでもそんな頻繁に罪を着せていたら、不審がられるのも当たり前である。
店長に尋ねられた保安員は、ごまかすように生ぬるい笑みを浮かべた。
「ちょっと何仰ってるんですか店長。この男の言ってることは全てでたらめで――」
「いいえ、本当です。もちろん証拠もあります」
「証拠? そんなものあるわけないでしょう? わたしは何もやってないんだから!」
「店長、とりあえずこれを見てください」
千博が胸ポケットからケータイを取り出すと、保安員は一瞬仁王像のように目を剥き、千博の手からケータイを叩き落とした。
そのまま地面に落ちたケータイを、女は足で踏み砕く。
「あら、手がぶつかって落としたら、偶然踏んじゃったわ。ごめんなさいね」
無理やりすぎる言い訳だが、多分保安員も本気でごまかせると思ってないはずだった。
おそらく実際に証拠があると悟った彼女は、疑わしきは罰せず。
明らかに怪しくなっても、証拠を隠滅することにしたのだろう。
だが相手が証拠隠滅計ることなど、千博は最初から想定済みだった。
「これ、展示用のレプリカですよ。近所の電機量販店で、いらなくなったレプリカを一個十円で売ってましてね」
相手にケータイを壊されることを予想し、昨日の内に千博は電気屋で偽ケータイを購入していたのだった。
少し慎重すぎるかとも思ったが、やはり備えあれば憂いなしである。
証拠隠滅に失敗した保安員は真っ赤になって震えるも、体の大きい千博に飛び掛かるまでの勇気はないらしい。
千博が店長にケータイで一部始終を見せると、彼は口をあんぐり開けて言葉を無くしていた。
「店長、覚えてますか? 僕はこの間万引きを疑われた中学生の一人ですよ」
「あ、ああ……」
「不審に思ってあの女をマークしていたら、こんなものが撮れましてね」
「あ、ああ……」
店長は誤認逮捕どころか、発想の斜め上を行く事態に思考力がマヒしてしまったらしい。
しばらく呻きともつかない声を上げた後、「警察に通報する」と呟いた。
その言葉を聞いた途端、保安員は断末魔にも豚の悲鳴にも似た声で叫ぶ。
「どうしてアタシがやったと思ったのよ! なんで分かったの!? どうして分かったの!?」
確かに彼女としては、なぜバレたのか不思議でしょうがないはずだった。
事実腕についた口が真実を語らなかったら、保安員は誤認逮捕でクビにはされても、真相は誰にも分からなかっただろう。
千博がどう説明しようかと悩んでいると、それまで黙っていたキクコが口を開く。
「アナタのね、右腕についたお口がね、全部話してくれたんだよ」
「はぁ、何言ってるのアンタ!?」
「アナタずっと怖かったんだね、本当のことを言われるの。だからね、右腕に口ができたんだよ。知られたくないことぜーんぶ話してくれる口が。アタシ知ってるよ。最初に小学生にお菓子を盗んだって言いがかりをつけたでしょ? それから小さな女の子のカバンに飴を入れたでしょ? 楽しかったんだよね? 人に罪を着せるのが」
キクコは保安員が近くに来るたびに、口が話していることを全て聞いていたらしい。
自分以外知らないはずの真実をキクコから聞いた保安員は、真っ赤な顔を今度は紙のように白くしていた。
誰にも知られてはいけない、ひた隠しにしてきた恐ろしい真実が、今キクコの口から話されている。
保安員が心の奥底で恐れ続けていた事態は、今現実のものとなっていた。
死体のように色を無くしながら震える女に向かって、キクコは嬉しそうにも聞こえる口ぶりで続ける。
「アナタの右腕にはね、アナタがしたことをぜーんぶ教えてくれる口があるんだよ。今も口は話してるよ。いつ、だれにヒドイことしたか。ずっと休まずにしゃべってるの」
「そんなことあるわけ……」
「ほらほらよーく耳をすませてみて。聞こえるでしょ。アナタじゃないアナタの声が」
ふいに肌寒い風が千博たちへ吹き抜けた。
気付けば、空はまるで燃えるように赤い夕焼けになっている。
「逢魔が時だ」と、なんとなく千博は思った。
いつにも増して赤いキクコの髪が揺らめくと同時に、保安員が「声が、聞こえる」と呟く。
「声だけじゃないよ。よく見て。アナタの右腕には口がたくさんついてるんだよ」
「くち、口? 口!?」
「そう、口だよ」
そういえば先ほど、やがて保安員は自分の腕についた口に気付くとキクコが言っていた。
それが今なのだろうか。
恐れていた真実を語られ、キクコによって自分の腕に話す口があると意識した保安員には、今、無数の口が見え始めてきたのかもしれない。
やや焦点の合ってない目で自分の腕を見ていた保安員は、やがて鋭い悲鳴を上げた。
「口! 口! 口がある! 私の右腕に口が! 動いてる喋ってる話してる!」
化け物を見る目で自分の右腕を眺めながら、女は必死におのれの腕を遠ざけようともがき、よろめいていた。
一瞬、彼女の腕についている唇達は口を引き締めると、次の瞬間一斉に嘲笑にも似た笑い声を立て始める。
隠していた真実がばれてしまったことを笑っているのか。
それとも自分の腕を恐れる女を笑っているのか。
とにかく口の笑い声はやむことなく響き続けた。
保安員のそばにいる店長は、いきなりうろたえ始めた彼女の様子に戸惑うばかりである。
「やめて! ヤダ! なにコレ! 来ないで! 来るな! やめろ! やめっ」
次第に言葉すら出なくなり、喚き声を上げる保安員は、もはや完全にパニック状態であった。
無理もないだろう。
腕についた無数の生々しい唇に、化け物に慣れ始めていた千博ですら驚いたのだ。
化け物や怪異の存在など全く知らないこの女にとって、突然右腕に現れた口は、耐え難く恐ろしい代物に見えるはずだった。
悲鳴とも呻きともつかない大声を上げながら、保安員は嗤う口に左手で爪を立て始める。
だが鋭い歯で噛まれ、素手では太刀打ちできないと悟った彼女は、辺りを見回し、やがて胸ポケットからボールペンを取り出した。
キャップを外した鋭いペン先が向かうのは、もちろん化け物の巣となった己の右腕。
千博は止めるが間に合わず、女は右腕をペンで何度も突き刺した。
潰されたそばから口は消え、後には血が流れる赤い穴が残る。
ハチの巣のようになった右腕と引き換えに口はすべてなくなったが、それも束の間。
今度は左腕から笑い声が響き始めた。
痛みより恐怖と嫌悪感が勝っているのだろう。
女は迷いなく自分の左腕を滅多刺しにし始める。
千博が慌てて羽交い絞めにするも、パニックに陥った人間の力は強い。
すぐに振りほどかれて、保安員は再びボールペンを自分に振るい始めた。
その懸命な努力のおかげか段々と笑い声の数は少なくなっていき、ついには完全な静寂が訪れる。
しかし代りに、女の腕は目をそらしたくなるような惨い有様になっていた。
力加減なく振るわれたペン先により、口があった場所にには穴がうがたれ、まるで無数に空いた鳥の目のようにも見える。
もちろん出血も酷く、だらりとたらした両腕の先からはとめどなく血がしたたり落ちていた。
「は、早く救急車を――」
我に返った千博は慌ててケータイのボタンを押すが、再びあの笑い声が聞こえてくる。
急いで保安員の方へ視線を向けると、彼女の喉には裂傷のように大きな口が生まれていた。
「なんで――」と、千博はほとんど口を開いたまま呟く。
それは単に、反射的な行動だったのだろうか。
それとも、嗤う唇の存在に耐えられなかったからだろうか。
彼女は、即座に自分の喉を貫いた。




