(6)
そこは、奇妙な場所だった。
夕暮れ前の、雲の上、と表現した方がよいだろうか。
上空は眩しいほどの黄色の空。大地は足で踏み締めることができる不思議な雲、のようなもの。風はなく、物音も聞こえない。遠くの方に小高い雲の丘があり、そこに城らしきものが見えた。
「ありゃ?」
最初、サジは寝ぼけているのかと思った。
あまりにも現実離れしている。
つい先ほどまで、自分は客のいない万屋にいたはず。ふいに視界の中に光る窓のようなものが現れて、女神を自称する眩しい女性が語り出し、そこにルォの顔が映った。
生きていることが分かって、安心した。
ルォの生まれ故郷でもあるサジの村では、大峡谷から十体を超える岩蜥蜴が現れた。一時的に村は大混乱に陥ったが、幸いなことに犠牲者は出なかった。地面の上では岩蜥蜴は足が遅く、また紅草という魔獣が嫌う草も備蓄されていたからだ。
数百年に一度、このような異常現象が起こる。古い言い伝え通り、村人たちは昼夜を問わず警戒しつつ、息を潜めるようにして生きてきた。
苔取り屋ギルドの元締めであるゴルドゥだけは、馬車に乗ってさっさと村から逃げ出したが。
“荒野”に隣接しているアルシェの街は、もっとひどいことになっているかもしれない。危険を承知でルォの無事を確かめにいくべきかと、サジは迷っていたところであった。
光る窓には、様々な場面が映った。
辺境の村に住むサジにとって、それはどこか別の世界の物語のようだったが、ルォが登場してからは、食い入るようにして見守るようになった。
人見知りでろくに会話もできなかったあの子供が、過酷な運命を背負った少女と出会い、ともに旅をし、最後にはプロポーズまで決めて、少女の心を救った。
「あいつ、やりやがった」
やはり父親の血かと、サジは感心したものだ。
物語が終わり、女神が婚姻がどうこう言い出したところで、ふと気がつくと、雲の上にいた。
どこまでが夢で、どこまでが現実なのだろうか。
あるいは、今も夢の中なのだろうか。
少し離れた場所に人影が見えた。
「おーい、そちらの方!」
相手を警戒させないよう、ゆっくりと歩み寄る。
「あ、“星守”の」
見知った相手だった。アルシェの街でルォが世話になっている解体屋の人たちだ。
「おお、君は。サジ君ではないか」
物々しい鎧姿のベキオスが、剣の柄から手を離すと、笑顔で手を上げた。
テレジアにマァサ。運搬隊のガンギ、ベキオス、チャラ、ボン、トトム。腑分担当の老婆であるスミ、ヌラ、モリン。そしてクロゼもいる。
おっという感じでサジが微笑みかけると、クロゼはかしこまったように一礼した。
みんな無事で安心したが、あれだけ矍鑠としていたテレジアだけは元気がないようで、スミたちに支えられている。
サジは別の人影に気づいた。
少し離れた場所で、躊躇うようにぽつんと佇んでいる、やけに姿勢のよい女性だ。
あちらさんも自分と同じで、わけも分からずここに来て、戸惑っているのだろう。
「おーい。そちらの方も、どうぞ!」
サジの呼びかけにより合流した女性は、レイザと名乗った。
「つい先ほどまで、王宮内の一室にいたはずなのですが。気づいたら、ここに」
「オレも同じです。店番をしていて」
別々の場所にいたはずの者が、なぜこんなところに。答えなど出るはずもなかったが、推測することはできるとマァサが言った。
「先ほどまで我々が見ていた場面と、無関係ではないでしょう。この現象は、女神メイルロードさまの思し召し。ルォさんとトゥエニ王女殿下に関係することかと」
レイザが目を丸くした。
「おひいさまと魔法使いルォを、ご存じなのですか?」
レイザはトゥエニ王女の侍女であり、アッカレ城の掃除にきたルォとも面識があるのだという。
「試練の旅に、わたくしも同行していたのですが、途中で離れ離れになってしまって」
やはりという感じで、マァサが頷いた。
「我々は、メイル教団の生き残りです。アルシェの街でトゥエニ王女殿下をお救いし、ともに“果ての祭壇”まで同行いたしました」
「そ、そうなのですか」
ふたりの話についていけないサジは、隣にいたクロゼにそっと聞いた。
「いったい、何があったんだ?」
「あとで教えてあげます」
サジは力のない息をついた。
さて、どうしたものか。
遠くに見えるあの城まで行けば、何か分かるかもしれない。だが、こちらには老人も女性もいる。
ここは、自分が偵察に向かうべきか。
そんなことを考えていると、すぐ近くで淡い光が放たれた。目を向けると、雲の大地の上に鉄製の分厚い扉があった。扉に刻まれた細かな紋様が輝き、中から六人の女性が現れる。
初めて会うが、知っていた。
はるか過去の時代に生まれ、国を救うために犠牲となった、悲劇の王女たちだ。
『さて、そろったようじゃな』
ふいに、女神の声が響いた。
遠くの方の雲が盛り上がり、中から人の姿が現れた。
人百倍はあろうかという、それは巨大な女性だった。扇状に広がった銀色の髪は自ら光り輝いている。力強い目鼻立ち。額や目元に宿す紋章。不思議な旋律を奏でる装飾品に、水の中を漂うように揺れる虹色の衣。
女神の姿なのだろう。
美しく、まさに神々しい。
「お、おお……」
「テレジアさま!」
数千年にも渡る信仰の対象が、圧倒的な存在感をもって目の前に現れたのだ。テレジアが雲の大地の上にへたり込み、慌てたようにマァサが支えた。
『これより、婚姻の儀を始める』
巨大な女神が両手を横に広げ、胸の前で構えた。
その動きに導かれるように、左右から雲の橋のようなものが伸びてきた。
先端にいるのは、少年と少女。
距離があるのでよく見えない。と思いきや、光る窓が現れ、拡大されたルォとトゥエニ王女の姿が映し出された。
ふたりとも虹色の衣を身に纏い、額には女神と同じような紋章を宿している。
雲の橋は、ぎりぎりのところで繋がっていない。
だが、手を伸ばせば触れられる距離だ。
『これは、古より伝わりし誓いの儀式。心に偽りがあってはならぬ。わずかでも偽れば、互いの存在はすれ違う。姿は見えず、声は聞こえず、触れられず。ゆえに、それは永遠の別れとなる』
何やら不吉なことを、女神は言い出した。
『誓ったところで、何も得られぬ。それでも、真なる心を証明するために、この儀式は存在する』
おいおいと、思わず口に出しそうになったサジだが、あれだけふたりを応援していた女神が、子供にそんな試練を課すはずがないと思い直した。
これはいわゆる、演出のようなものだろう。
「そ、そんな。お母さま」
だが、六人の姫たちまでも顔色を失っていた。
抗議の声を上げることはできない。隣にいたクロゼが、両手を固く握りしめながら固唾を飲んで見守っている。
『精霊に愛されし魔性の子、ルォ。そして、妾の血を受け継ぎし娘、トゥエニティーエよ。異存はないか?』
『はい!』
迷いのない声で、ふたりは返事をした。
『よろしい。では、誓いの言葉を述べるとともに、紋章をひとつにせよ』
ルォとトゥエニが、両手を触れ合い、握りしめた。
その瞬間、金属が砕けるような硬質な音とともに、世界がふたつに割れた。
黄金色だった空が、変わる。
橋を隔てた半分、ルォがいる方は、純白の雲が棚引く青空に。もう半分、トゥエニがいる方は、満天の星空に。
まるで時間が駆け抜けるかのように、雲が流れ、星が巡る。
そんな天変地異の中、少しくすぐったそうに、少年と少女は微笑み合っていた。
少年が呟く。
『互いに、いつくしみあい』
少女が呟く。
『ともに、生きることを』
そしてふたりで。
『誓います』
額と額が、合わさる。
ふたつに別れた世界が弾け、得体の知れない光と波動が広がった。反射的にサジは、隣のクロゼを庇うように抱きしめていた。
それは、ほんの数呼吸ほどの間。
遠くから音が聞こえた。
鐘の音だ。
目を開けると、周囲は黄金色の空に戻っていた。
光る窓の中で、少年と少女はしっかりと手を繋いだまま。
『ふっ。あっさりと、のう?』
女神が含み笑いを漏らした。それは次第に大きくなり、豪快な笑い声となった。
『真なる心は、いまここに証明された。そなたらの声は届く。勇敢なる妾の娘とその婿を、祝福せよ!』
女神が両腕を大きく広げると、黄金色の空に、無数の光る窓が現れた。
そこに映っているのは、見知らぬ人たち。
おそらく彼らも、光の窓を通してこの光景を見守っていたのだろう。
鐘の音に混じり、拍手と歓声が溢れ返る。
笑顔の者もいれば、泣いている者もいた。
誰もが感謝し、ふたりを讃え、祝福していた。
◇
ひとつに繋がった雲の橋が、サジたちがいる場所に向かって伸びてくる。その先端で、ルォとトゥエニはしっかりと手を繋ぎ、無数の光る窓に向かって手を振っていた。
雲の橋が雲の大地に繋がった。ふたりはそろって一礼した。顔を上げたルォは、誓いの儀式の時よりも緊張しているようだ。
「えっと。ほ、本日はお忙しい、中。わた、くしたちの、こんやくのぎ? のため……」
したこともない口上を述べようとしたらしいが、途中からうやむやになり、最後は開き直ったようだ。
「来てくれて、ありがと」
「ルォ君っ!」
クロゼが飛び出し、ルォとトゥエニを抱きしめた。
「星姫さまも。よく、ご無事で」
あとは言葉にもならないようで、ただただ頷くだけ。
「ルー坊っ!」
「ルォちゃん!」
歓声を上げながら、運搬隊の老人たちや腑分け担当の老婆たちが取り囲んだ。
頼りない足取りで、レイザが歩み寄る。
「おひい、さま」
「レイザ!」
試練の旅に出る時に唯一ついてきてくれた侍女がいたことに、トゥエニは驚いた。
「無事だったのですね」
「は、はい。わたくしは」
普段めったに感情を表さないレイザが、はらりと涙を流した。
「わたくし、だけは……」
トゥエニとしては、“試練の旅”の途中でレイザが予定通り王都に戻ったという認識だったが、オズマの罠にかかったレイザにしてみれば、悪辣な魔法使いに主人を任せてしまった自責の念と、自分を救うために近衛隊が犠牲になったという罪悪感に、胸が締めつけられる思いだった。
だが、トゥエニが無事だったことで、少しだけ報われた気がした。
顔を手で覆い膝をついてしまったレイザを、トゥエニが優しく抱きしめる。
“星守”の皆にもみくちゃにされているルォが解放されるのを見計らって、サジが声をかけた。
「まあ、なんだ。よく頑張ったな」
「あ、アニキ!」
ルォは喜び、それから意外そうな顔をした。
「何しにきたの?」
「お前な」
再会の感動はおさまる気配を見せない。
雲の地面に座り込んでいるテレジアを支えながら、マァサはやや離れた位置から穏やかに見守っていた。
テレジアの力が抜け、寄りかかってくる。
「テレジアさま?」
「……騒ぐんじゃ、ないよ」
弱々しい声だった。
「静かに、おし。めでたい、場じゃないか」
マァサに“星守”の代表の座を譲り、“星姫”であるトゥエニを“荒野”に送り出してから、テレジアは頻繁に体調を崩すようになった。
言動も変わった。
まるで緊張の糸が途切れてしまったかのように、気負わない笑顔を見せるようになり、涙とともに感謝や謝罪の言葉を口にするようになったのだ。
「……長かった、ねぇ」
百年近くになる老婆の人生の半分は、苦難と絶望とともにあった。しかし今、テレジアは安堵の表情を浮かべ、閉じた目にはうっすらと涙が滲んでいた。
マァサの手に老いた手が重なった。ほとんど重さを感じない、乾いた手だった。
「マァサや。後のことは、任せたよ」
声もなく、マァサはその言葉に耳を傾けた。
「なぁに。これまでと比べたら、たいしたことじゃない」
満足しきったような笑顔で、テレジアはもごもごと口を動かした。
“盟約”は必要なくなったが、事実を後世に伝える必要はあるだろう。
神話ではなく、歴史として。
「お前さんなら、きっとできる」
そのためには、権威を再構築しなければならない。
すなわち、メイル教団と女神信仰の復活。
まずは王家との交渉から。
だが、権力闘争や陰謀が渦巻く王宮は、魔の巣窟。ことなかれ主義の役人たちも動きは鈍い。
理だけでは無理だ。根回しや駆け引きや、場合によっては脅しといった強引な手段も必要になるだろう。
世間知らずで純粋な“星守”が、対等な立場で交渉し、国を動かすことができるだろうか。
「いや、厳しいか」
「テレジアさま?」
失墜した王家の威信を回復するために、故意にもてはやされ、利用される可能性が大である。
となれば、その流れに乗りつつ、民草の圧倒的な支持を得て、圧力をかけるしかない。
そのためには。
「むぅ〜ん?」
テレジアは薄目を開けた。




