39. 足止め
領都ベールを出て北へ向かうと、人が分け入るのをはばむように湿地帯が広がっている。ぬかるんだ泥の中にはその土地特有の魔物が生息し、貴重な素材を探しにきた冒険者たちに襲いかかるのだ。
命からがらその湿地帯を抜けたとしても、今度は大森林が辺境伯領の北端まで続いている。大小の河川を越えなければ先に進めず、大きな川沿いには規模の小さい集落が点在しているが、そこを外れてしまうと人跡未踏の土地がほとんどだ。
こうした環境は多種多様な魔物や動物の命を育み、彼らが我が物顔で闊歩する野生の楽園と化していた。
ところが、この数日間、湿地帯から森へと入る境界線の辺りから、魔物の姿がすっかり消えていた。普段ならばこの一帯の王のように振る舞っている大型の魔物も、住処を移動するか、巣の中にじっとしていて出てこない。
その理由は、膨大な魔力を持つ者が、上空で激しい戦いを始めたからである。
青い鱗におおわれた肢体を優雅にうねらせているのは、『龍神の迷宮』のダンジョンマスターであり、この地域の守り神のように信奉されている龍神セイだった。
「面倒な奴じゃな……」
セイは吐き捨てるように言った。
戦闘はもう三日間に及んでいる。まだ余力は残しているが、体には大小の傷ができていた。
敵にも同じか、それ以上の攻撃を当てているのに、怪我らしいものは見当たらない。なぜかといえば、ダメージを与えても見る間に回復してしまうからだ。
「その再生力は脅威じゃのう。しかし……」
楽に戦える相手ではない。それは間違いないのだが、セイだけでなんとかなっている時点で、魔王の強さとしては不十分だった。
もしもセイが過去に遭遇した魔王たちと単独で戦っていたら、とても三日間も耐えきれなかっただろう。そのくらい魔王という存在は圧倒的な力を持っていた。
セイは突如あらわれたガーゴイルの群れを追ってここまでやって来た。ちょうど湿地帯の上を飛んでいるときに、大型の魔物を貪り食う人族の男を見つけたのだ。それはなかなか凄惨な光景だった。男は口のまわりを真っ赤にして、魔物の肉を生のまま食いちぎっていた。
セイはその男を見た瞬間、魔王だと分かった。魔王には独特の気配がある。魔力に含まれるものが、歴代の魔王とよく似ていたのだ。
ガーゴイルに魔王を見分ける能力があるのかは分からない。男が持つ魔力量が膨大だったために、脅威と判断したのかもしれないが、ガーゴイルたちは一斉に襲いかかった。
ところが、相手にもならなかったのである。ガーゴイルは次々に叩き落とされていき、魔力をすべて吸収されて元の岩石にもどってしまった。
魔王は空に浮かぶセイに気づくと、問答無用で攻撃してきた。それ以来、三日間休みなく戦い続けている。
「ぐ、ぐう……わ、私の、よ、余の、俺様の、じゃ、邪魔をするなぁぁぁ!」
「精神が不安定なようじゃな……」
最初から魔王は言葉がたどたどしかった。それに幾人かの人格を一つの体に押し込めたような話し方をする。そして、しばしば戦いを放り出して北へ向かおうとした。
そんな魔王を前にして、セイは足止めに終始していた。
古今東西、魔王に大打撃を与えてとどめを刺せるのは、勇者の聖剣と決まっている。これまでの歴史がそうだった。だからこそ、セイは魔王の進行を邪魔しながら、勇者の到着を待っていたのだ。
――今代の勇者め、さっさと姿を見せぬか。説教の一つもしてやらんと気が済まぬぞ。
戦闘時間が長くなるのは覚悟していた。そのためにセイは『龍神の迷宮』を閉鎖してきたのだ。領主や冒険者たちへの連絡は、最近連れ回していたポーターのミキオに任せてある。あとはここで勇者とともに魔王を倒してしまえば、周辺地域への被害は小さいままで済むだろう。
再び北へ抜けようとする魔王に、セイの長い体が優美な曲線を描いた。これまで何度も魔王の動きを止めてきた尾による強烈な一撃である。
だが、魔王はその攻撃を紙一重で避けた。
「なにっ!?」
「ガァァァ!」
魔王はセイの尾を両手でつかむと、力任せに振り回してから放り投げた。
「くっ!」
セイは空中で姿勢を制御して魔王の追撃に備える。
「なっ!? 待つのじゃ!」
当然やってくるだろうと思っていた追撃がなかった。そのかわりに魔王はセイを無視して北へと飛び去ろうとしていた。
「我を無視するとは、この痴れ者が! 北になにがあるというのじゃ!」
セイは不可解な魔王の行動に首をひねりながらも、その背中を追いかけるのだった。
◇◆◇
女神教の大神殿で新たな動きがあった。
両国の開戦前、聖騎士筆頭のソールトと聖女キーナレーンは、大神殿の地下に隠された部屋を探し当て、魔力を使った防衛機構である聖結界を起動した。それは現在も問題なく稼働している。ソールトが地下の部屋で登録した者だけが、結界を通り抜けることができた。
大神殿を包囲している王国軍は、聖結界にはばまれて斥候すら出すことができない状況だ。膠着状態におちいって以降、そこにはなんの変化もなかった。
これらのことはすべて当初の計画通りである。ソールトとしても、うまくいきすぎたことで浮かれないように自制したぐらいだ。しかし、次の段階に進むために必要な味方の軍勢がいくら待ってもあらわれなかった。
「外では一体なにが起きているのだ。これでは埒が明かぬぞ」
礼拝堂の出入り口から外を眺めていたソールトは眉間に深いしわを刻んでいた。
キーナレーンはその横顔を心配そうに見つめている。
「ソールト様……」
「やはり私が出るしかないか。キーナレーン、着いてきてくれ」
「はい……」
ソールトはキーナレーンを連れてもう一度地下の小部屋に向かった。




