退かぬ! 媚びぬ! 省みぬ!
「ね、ねえ、ディアッチ」
ウーバが恐る恐る口を開く。
「どうした?」
「そ、その……えーっと……やっぱり無理!」
ウーバは耳まで真っ赤にし、両手で顔を覆った。
おかしい。こんなはずじゃなかった。
魅了状態にかけたら、お酒の力も借りて、切れ味するどい質問を次々に投げかけ、ディアッチの赤裸々な気持ちをすべて聞き出す。
そして、
「ふーん、そんなに私のこと、気になってたんだ。隠すの下手だものね。うふふふ」
なんて、ちょっと高飛車なサキュバスを演じるつもりだった。
けれど、恋愛経験の「れ」の字も経験がない彼女は、『本番』の呪縛に、見事にからめとられていた。
ディアッチの顔を見上げた瞬間の、制御できない胸の高鳴り。
それは今まで感じたことがないほど強烈で、新鮮だった。
同時に、それは思い描いていたすべての作戦を破壊した。
彼女はまさにウブな生娘そのものだった。
「全然、タイプじゃないの。こいつは、もともと子供をいたぶる悪いやつだったの」
ウーバは荒い息を吐いて呪文のように深呼吸を繰り返す。
真新しい空気を吸い込めば、この動揺を落ち着かせることができると言わんばかりに。
しかし、胸の動悸は燃料を投下されたように速度と勢いを増し、顔は火照るばかりだ。
「や、やだ……私、こんな格好で」
反射的に豊かな胸を抱えた。
惜しげもなくさらしていた白い肢体に、急に恥ずかしさを感じた。
いかにも襲ってくれと言わんばかりの格好で、何を聞き出そうと言うのか。
むしろ、ウーバ自身が好意を最大にして、ディアッチにすり寄っているように見えるじゃないか。
突如やってきた悶えるような羞恥心に、彼女は「~~~っっ」と声にならない悲鳴をあげ、へなへなと地面に膝をついた。
でも――彼女にも意地がある。
サキュバスとして、仲間として、簡単に落ちる女だと思われるのは許せない。
もちろん、ディアッチはそんなことを思うはずもないのだが、ウーバの中で、右往左往しているばかりの自分は「負け」だった。
その役目は自分ではなくディアッチが背負うものだ、という謎のプライドがあった。
「ちょ、ちょっと話をするだけ。そう……難しいことじゃないわ。まずは、きっかけよ」
何度目かわからない自問を繰り返し、彼女は自分を奮い立たせるように立ち上がる。
ディアッチに斜めに背を向けて胸を隠すようにして、首を回した。
「ねえ、ディアッチ……その……えっと……好きな……食べ物は?」
「MP以外で、ということか? 肉だ」
ディアッチは優し気に答えた。
その大きな瞳がウーバを慈しむように曲がる。
彼女は、急に胸が締めつけられるような気分になり、顔をそむけた。
どうでもいいプライベートな質問に、ディアッチが嬉しそうに答えてくれた。
ほわほわと心が温かくなっていく。
誰にも邪魔されず、他愛ない会話を楽しめる時間。
「バーベキュー、来て……良かった」
人知れず少女のような顔で、幸せを噛みしめるウーバ。
準備は大変だったけど、もうこれでいいか、とも思えた。
だが――
遠くの湖畔に見知った人物を見つけて、ひくっと頬が引きつった。
リリ、プルルス、シャロンの三人が、「どうなるんだろう」とばかりに、興味津々で彼女を見つめていた。
特に、リリは明らかに食い入るように目を凝らしてグラスを呷っている。片手には何かを持って、食べては飲むという行儀の悪さ。
ウーバの頭が急速に冷えていく。
「ま、まずいわ。こんなので満足したなんて知られたら……」
ウーバの頭の中に、三人に呆れられている場面が浮かぶ。
――「僕の部下は意気地がないね。それでもサキュバスかい?」
――「ウーバ様、見損ないました。なぜガツンと聞かなかったのですか?」
――「えぇー、私、アイテムまで使ったのに、聞けたのは好きな食べ物だけなのぉ?」
「あぁぁぁっ、これはダメよ! がんばれ私――き、訊く、訊いてみせる。それが一人前のサキュバスよ」
彼女は意を決してディアッチの方に向き直った。
胸に手を当て、一番深く呼吸をし、ディアッチの顔を見ずに――
「わ、私のこと、どう思ってる!?」
突然の最終兵器の投下だった。
やってしまった、と思った瞬間、つんと鼻の奥が痛くなり、瞳の奥がじんと熱を持った。
けれど、今さらごまかせない。
彼女は過呼吸気味に息を乱し、下からにらむようにディアッチを見つめた。
――どうしてこんなに。
種族も違う。見た目もタイプじゃない。
不愛想で、気が利かなくて、おまけにだらしないやつだ。
でも――
でも――
「わ、私は――あなたのこと、す、す、す――ぇぇぇっつ!?」
彼女の緊張は限界に来ていた。
だから、何かが足に巻きつき、湖に引きずりこまれた瞬間に、ろくな対処ができなかった。
***
「ウーバ!?」
私は思わず立ち上がった。
対岸で予想もしない事件が起こった。
彼女の足に白い何かが巻きつき、湖に引きずり込んだのだ。
「ウーバぁぁっ!」
同時に巨大な咆哮が鳴り響く。
ディアッチが沈んだウーバのあとに飛び込んだ。ざぶん、と大きな波音が響くとともに、私の後ろでプルルスが立ち上がった。
「やれやれ、あの二人の周囲には『落ち着き』ってものが皆無だね」
「プルルス、それは?」
「槍さ。今は銛と言った方がいいかな」
プルルスは赤黒い三メートルほどの長さの銛を手にしていた。
血界術を駆使し、一瞬で作ったのだ。
彼は瞳を一層紅く輝かせ、湖の中に目を凝らす。
「ディアッチ、今日は武器を持ってないからね。水中だと不利だ」
「不利?」
「ちらっと見えたのは、かなり大きな生物だった。さしずめ白魚の滝の白魚ってところかな。戦うなら外に引きずり出した方がいい――そこだ」
彼が綺麗なフォームで銛を投げた。
それは途方もない速度で水中に音もなく飛び込んだ。
「シャロン、僕の血の気配を捕まえて」
「承知しました」
赤髪のシャロンが湖の水面に踏み出した。
彼女の足下に水で凝縮した足場が次々と現れた。あっという間に湖の中央までたどり着くと、上品に水面に手をついた。
すると、湖面に渦が巻き始めた。
シャロンが同時に眉を寄せた。
「かなり……強いモンスターのようです」
「ディアッチもウーバが捕まっている以上、戦場は陸で、と思っているだろ」
「そのようです。引き揚げます」
「急いで」
プルルスは淡々と指示を出す。
呆けるように見ていた私に、彼がにやっと口端を曲げた。
「シャロンとディアッチのタッグで、できないわけがない。主様は見ていてほしい。僕らも、なかなかやるってところをね」
と、その時だ。
水面が大きく盛り上がる。シャロンがそれに押し上げられるように空を舞い、私たちの近くへと着地した。
遅れて、湖面が割れ、巨大な白いモンスターの姿が見えた。
「ぉぉぉおおおおおっ!」
ディアッチが咆哮と共に、湖畔へ放り投げる。
彼の片腕には気を失っているウーバが抱きかかえられている。
モンスターはウナギのような外観だった。体長はゆうにディアッチの倍を超えている。
陸でも動けるのか、蛇のように体をくねらせると、辺りの木々が吹き飛んでいった。
「これが、白魚か。初めてみたよ。大きいね」
「湖の底にいたのでしょうね」
飄々と話すプルルスとシャロンの元に、ディアッチがゆっくりと歩いてきた。
彼は膝を折り、優しくウーバを地面に寝かせる。
その瞳は悲し気に濡れていた。
「我が隣にいて、このような失態を犯すとは」
「君のせいじゃないよ、ディアッチ」
「いえ、我は少々、心が浮ついていたのです。そのせいで、もう少しで……ウーバを失うところでした」
思いつめたように言うディアッチに、プルルスが肩をすくめて見せた。
「違う。ウーバは君が守らないといけないほど弱くない。隙があったと言うなら、ウーバ自身だ」
「それは……」
「君たち二人は同格だ。それにウーバはちゃんと生きている。彼女は強いしね。今、君がやらないといけないことは――後悔かい?」
ディアッチの瞳に力が入った。
プルルスが「必要なら僕や主さまも加勢するけど」と笑う。
「無用です。我、一人で」
ディアッチはそう言って、両の拳をがんがんと音を立ててぶつけた。
私の方を見て、申し訳なさそうに軽く会釈した。
「主も、手出し無用ですゆえ」
「うん……がんばれ」
ディアッチはくるりと背を向けて白魚の巨体と対面する。
恐れも、怯えも、何もない。
彼の背中はとても大きかった。どしんと一歩踏み出す。
と、意識を失っているウーバが――
「そういうのが、かっこいいの――」
ぽつりと囁くように言った。夢でも見ているのだろう。
聞こえたのか、聞こえていないのか。
その後のディアッチの戦いは鬼神のようだった。
力、経験、後押し――すべての力を存分に振るう彼は、確かにウーバが言う通り、とても格好良かった。
良かったね!




