第40話
ステンドグラスが美しい講堂の前には、真新しい制服に包まれている生徒が多くいた。入学式を無事に終えた生徒たちは、新しい生活に胸を躍らせながら、知り合いと話に興じたり、学園内を散策しようとしていた。
恵まれた晴天がもたらした気持ちの良い気候に頬を緩ます生徒達の歩調は、この時を楽しもうとするべくゆっくりであった。
そんな優雅な雰囲気に包まれている講堂前を、思いっきり突っ切る女子生徒がいた。光に照らされたプラチナゴールドの髪はふわりと風になびき、輝く青の瞳は正面だけを見つめている。足取りに迷いはなく、講堂前のレンガ道を軽やかに駆けていく。
イードンからジェラルドが正門前付近で仕事をしていると聞いたのは、入学式開始前。ジェラルドが今日応援で来ることは知っていたが、どこにいるかまでアシュリーは知らなかった。大変重要な情報を入手したアシュリーは、今すぐ会いに行きたい気持ちを抑えながら、早く式が終われとずっと念じていた。
レンガ道の脇に植えられた桜の木は満開で、風が吹くたびに、可愛らしいピンク色の花びらが空からひらひらと落ちていく。
そんな様子を楽しみながら正門を目指すアシュリーだったが、物凄い人だかりがあることに気がつく。何事かと思いながら視線を向けると、そこにはアルフレッドがいた。
王子とはいえ、ここでは一生徒。貴族や成り上がりを目指す女子生徒達に囲まれているようだった。この前の学園長に捕まっていた時と同じように、困った顔を浮かべながら視線を彷徨わせている。
一瞬、アシュリーとアルフレッドの視線が交差する。が、アシュリーは足を止めることなく、進んでいく。
――――アシュリーっ!
名前を呼ばれたような気がしたが、きっと気のせい。女子生徒を押しのけてこちらへ向かおうとしていた気もしたが、きっとこれも気のせい。だって、あなたにはヒロインがいるのだから。
アシュリーは気にしないどころか、速度を更に上げていく。早くジェラルドに会いたいし、なにより走るのに気持ちの良い気候だ。
半年前はちょっとした距離を歩くだけで呼吸が乱れていたのに、今はこんなにも楽しく身体を動かせるのだから不思議なものだ。まだまだ細い、と言われるほどの体型ではないので、健康を害さない範囲で引き続きダイエットをしていこうとアシュリーは考えていた。誰かの為ではなく、自分の為に、挑戦したかったのだ。
どんどん進んでいき講堂から離れると、人通りが疎らになっていく。益々スピードを上げられると喜ぶアシュリーだったが、突然、不穏な空気を感じ取った。ふと、視線をずらすと、三人の女子生徒に囲まれている人影があった。――――ヒロインだ。
ゲーム通りに囲まれているヒロインは、ゲーム通りにランドーガ家令嬢とその愉快な仲間たちに絡まれていた。
意味の無い嫌味を言われているのだろう。ヒロインは困った顔をしながら、身体を小さくしていた。
助けに行く、という考えが浮かんだものの、ゲーム通りに進んでいる状況からしてこの後アルフレッドが助けに来るはずだ。もしかしたら、余計な邪魔になってしまうかもしれない。それにランドーガ家の令嬢にとっても、アシュリーが来るより、アルフレッドが現れる方が気まずいだろう。
――――大丈夫。王子様が助けに来てくれるから、もう少しだけ辛抱してね。
そう心の中でヒロインに語りかけ、アシュリーはその場を後にする。
一応、後でフォローをしておこう。そうだ、従妹から突然届いた入学祝の大量の焼き菓子を理由に、お茶に誘おう。これなら違和感はない、と思いたい。それに一人で食べたら太ってしまうが、何人かと分けて食べる分には問題ないだろう。ヒロインのフォローも出来るし、焼き菓子だって食べることが出来る。一石二鳥だ。
そういえば、とアシュリーは以前頻繁に呟いていたフレーズを駆けながら思い出す。
殿下。逆ハー。断罪。
あんなに執着していたのにいつの間にか、頭から消え去っていた。もはや逆ハーも断罪も興味を失くしていた。正直、どうでもよかった。毎日が充実していて、それだけで十分忙しいのだ。
話の始まりである殿下には幸せになってほしいと思う。そう、今の自分と同じように。
正門が視界に入ってくる。鉄の門の前に佇む騎士が一人いた。綺麗に整えられた栗色の髪に、印象的なキャラメル色の瞳は間違いなくジェラルドだ。
ジェラルドはまだ気づいていないのか、違う方を見ていた。真剣な表情で辺りを見渡すジェラルドがあまりにも格好良くって、思わず惚れ直してしまう。こんな素敵な人が自分の婚約者だなんて、夢のようだ。
「ジェラルド様っ!」
周りに人がいないのをいいことに、大きな声で呼びかける。気づいたジェラルドは、嬉しそうに手を大きく振ってくれた。
ジェラルドの前にようやく到着したアシュリーは少し乱れた呼吸を整える。そんな姿をジェラルドは幸せそうに見つめていた。
「今の走り、どうでしたか?」
「うん、最高! 綺麗なフォームで走れてたよ」
ジェラルドのお褒めの言葉に、アシュリーは思わず得意げな顔をしてしまう。そんなアシュリーも可愛いのか、ジェラルドは笑みを一層濃くした。
「あー、やっぱり、俺、一生懸命に走るアシュリーちゃんを見るの、好きだなぁ。俺に向かって嬉しそうに走ってくれるだなんて、幸せすぎてどうにかなりそう」
頬を染めながら自身の気持ちを飾らずに伝えてくれるジェラルドに、今度はアシュリーが顔を赤くする。
なんだかここ最近ジェラルドにやられっぱなしだ。何かこちらから仕掛けられないかとアシュリーは行動に出る。
左右に誰もいないことを確認したアシュリーは、背伸びをして、片方の手を肩にかけ、もう一方の手はジェラルドの頬に添える。そのままゆっくりと顔を近づけ、唇を重ねた。
触れるだけの口づけはすぐに終わる。ジェラルドの驚いた表情が可愛い。
キスをしてもらった時とは違う幸福と満足感に満たされたアシュリーは、同時に甘酸っぱい感覚に襲われる。こんなにも感情が揺れ動くものだなんて、知らなかった。
「アシュリーちゃん、反則」
「それを言ったら以前のジェラルド様も反則です」
アシュリーの反論に、ジェラルドは「それもそうだね」と笑いながら同意する。
「……アシュリーちゃん、俺からもしていい?」
「き、聞かれるのも、それはそれで、恥ずかしいです……っ! ど、どうぞ!」
瞳を閉じてその瞬間が来るのを待ち構える。小さく笑う声が聞こえたかと思うと、すぐに唇からどうしようもないほどの幸せが注がれる。
半年前、あの夢を見た時は絶望一色で、自分の未来はどうにもならないのだと思っていた。きっと、あの時、ジェラルドに出会っていなければ、ダイエットは志半ばで終わり、今頃、負の感情に支配され、ヒロインとアルフレッドの出会いのスチルに出演していただろう。
気を失いかけた時、助けてくれたのがジェラルドで良かった。傍で支えてくれたのがジェラルドでよかった。
ジェラルドじゃなかったら、きっと今の自分は存在しない。
ゆっくりと口づけの余韻を味わいながら目を開けると、アシュリーを愛おしげに見つめる瞳が視界に入る。
そのキャラメル色の瞳は、キャラメルよりも甘かった。
おしまい




