第39話
オリエンテーションが終わった次の日、アシュリーは慌ただしく公爵家へと戻っていた。せっかく寮生活の準備を終えていたというのに、まさかのとんぼ返りだったが、仕方がない。ジェラルドがフィルエンドに会いに行こうと提案してきたので、断れるわけがなかった。
アシュリーを出迎えたフィルエンドは驚いていたが、一緒にいるジェラルドの姿を確認すると、納得の表情に変わる。兄には分かっていたようだ。
気持ちは通じ合ったとはいえ、貴族社会に身を置く二人の話は簡単には進まない。と思ったが、恐ろしい速さで二人の婚約は決まった。
時間をかけて説得する羽目になると思っていたアシュリーは拍子抜けしたが、周りの人達は特段驚いていなかった。アシュリーは全く気がついていなかったが、水面下で話が進んでいたのだ。
以前、侯爵家で世話になったアシュリーを二人が迎えに来た際、フィルエンドがやつれた顔をしていたのも、この水面下が関係していた。
アシュリー抜きのご挨拶で、ダリウスがそれとなく打診したところ、アマンダは乗り気で、すぐさまディアンガー侯爵に相談すると息巻いていたらしい。暴走し始めた両親達を止めたのがフィルエンドとジェラルドの二人だった。
「アシュリーは学園を卒業するどころか、入学もまだしていません。父上、早すぎます。ジェラルドは申し分ない相手ですが、とにもかくにも、早すぎます。それにアシュリー抜きで話を進めることに賛同できません」
「フィルエンドと同じく、私もレディ・アシュリーの気持ちを優先したいと考えています。もちろん、個人としては歓迎ですが……」
二人の意見、特にフィルエンドの怒涛の反対で、この話は一度保留となったのだった。
アシュリーの意思で話がまとまる状況だったため、屋敷に戻ってことの次第を報告すると、事態は一気に動いた。
その当日には、急遽ウェストビー公爵家とディアンガー侯爵家の晩餐会が催され、無事に二人の婚約と学園卒業後の結婚が決まったのであった。
その後も寮には戻らずに、婚約を親族に伝えるため、連続で晩餐会をこなす羽目になる。学園は学園でレクリエーションや説明会の予定があったのだが、事が事なので、こちらを優先し、寮に戻るのは入学式の前日に決まった。
昨日はウェストビー公爵家側の晩餐会だった。聖剣の日ぶりに対面した従妹は、アシュリーの姿を見るなり自身の頬をつねっていた。痛そうな表情を浮かべる従妹を見つめながら、何か言葉が返ってくるかと期待して待つも、棒読みのお祝いの言葉が述べられるだけだった。何故だか寂しさがアシュリーを襲った。
今日はディアンガー侯爵家の晩餐会で、ジェラルドの親族に挨拶する日だった。知らない人ばかりなので、社交的とはお世辞にも言えないアシュリーにとって、緊張するイベントであった。
早めに侯爵邸へ着いたアシュリーは、ジェラルドと例の質実剛健な庭を散策していた。ジェラルドも予定が詰まっていたようだったが、事情を知った部下に仕事を全て奪われてしまい暇になったようで、この怒涛のスケジュールを一緒にこなしていた。
申し訳程度に咲いている花を眺めながら散策する。優しく吹く風は、少し温い。アシュリーはなびく髪を押さえながら、春の訪れに頬を緩ました。
「連日連夜疲れちゃうよね」
「そうですね。ちょっと疲れてしまいました。嬉しい悲鳴に違いはないのでしょうけど」
「あはは、そうだね。幸せなことに違いはないね」
ジェラルドは何度も深く頷く。その横顔は嬉しそうに笑みを浮かべており、アシュリーは静かな喜びを感じていた。
学園に入学したら暫く会えなくなると思ったのに、まさかこうやって堂々と隣を歩ける日が来るだなんて。まるで夢のようだ。現実であることを理解するために、従妹のように頬をつねりたくなる。
「そうだ! 今日はアシュリーちゃんに渡したいものがあって」
「渡したいもの……? なんでしょう」
「ちょっと待っててね」
ジェラルドはそう言うとアシュリーを庭に置いて、屋敷に戻っていく。ちょっと、と言った通り、すぐに戻ってきた。手には濃紺の平べったい箱が握られていた。
思わずその箱を凝視してしまう。十中八九、ジュエリーボックスだ。流れ的にも期待が止まらない。
ジェラルドはその箱を開けようとするが、金具の調子が悪いのか手間取っていた。
「あー、古いから上手く開かないなぁ。母上から頂いた時はすぐ開いたんだけど……。うーん……。っと、あっ、開いた!」
何度目かの挑戦で開いた箱の中には、イエローゴールドのチェーンが光っていた。ペンダントトップは大粒のペリドットで覆輪留めされていた。デザインは今時ではないものの、愛着の湧くネックレスだった。
まじまじと鑑賞していると、ジェラルドがネックレスを台座から慎重に抜き取り、そのままアシュリーの背後に回る。
「髪を上げてもらってもいい?」
慌てながらおろした髪を両手で持ち上げる。露になったうなじを春の風が撫でたかと思うと、すぐにジェラルドがネックレスを着けさせてくれた。
ひんやりとしたチェーンと重みのあるペンダントトップに胸は高鳴る。鏡で確認したいのに、どうして近くにないのだろうか。
「うん、とっても似合ってるね。透明感のあるアシュリーちゃんにピッタリ」
透明感、という言葉にどぎまぎするが、ジェラルドはさらりと言ってのけた。
「ジェラルド様、これは……?」
「これはね、うちに代々受け継がれるネックレス。長男が婚約者に贈るんだ。だから前の持ち主は母でさ、昨日受け取ったんだ。すっかり忘れてたみたいで困っちゃうよね」
澄んだ新緑のペリドットが暖かな日差しを受けて美しく輝く。初夏の雨上がりに見ることが出来る濡れた青葉のようだ。
「とっても素敵ですね……。ありがとうございます! 大切にします!」
侯爵家の一員として認められた気がした。嬉しい。不安だったこの後の晩餐会もなんとかなりそうな気がした。
しみじみとネックレスを見つめていると、ジェラルドが思いもよらない言葉をアシュリーに告げてきた。
「アシュリーちゃん。そういえば、俺、気持ちは伝えたけど、ちゃんと結婚を申し込んでないよね」
突然の展開に驚くアシュリーをジェラルドは楽しげに眺めると、ゆっくり片膝をついた。アシュリーの手を握るジェラルドの手は、少し震えている。
「レディ・アシュリー、あなたを幸せにすることができる権利を俺にください。どうか、結婚してください」
幸せそうなキャラメル色の瞳から目が離せない。ジェラルドもアシュリーと同じように幸福を感じていることが嬉しかった。
返事は当然決まっている。
「はいっ、もちろんです……!」
アシュリーの答えにジェラルドは満面の笑みを浮かべ、着いた片膝をゆっくりと戻す。
「改めて言うと、ちょっと緊張しちゃうね」
「嬉しかったです」
ありったけの想いを込めて言葉を口にする。この気持ちがジェラルドにも伝わるようにと真っ直ぐ瞳を見て告げると、突然、ジェラルドの片手がアシュリー顎を持ち上げる。
まさか、と思いながら急いで心の準備をしようとするが、整う前に柔らかな感触が唇を襲う。
本来なら目を閉じるのがマナーだろうに、アシュリーは目を限界まで開きながら硬直していた。
そんな様子が面白いジェラルドは、少し顔を離した後、もう一度軽くアシュリーの唇に自身のを重ねる。
唇が触れあうだけなのに、何故こんなにも喜びが胸一杯に広がるのだろうか。心拍数が上がっているというのに、それも心地よいと思ってしまうのも不思議だった。
「また一番幸せな日が更新されました」
アシュリーの発言にジェラルドは目を細める。
どうしようもないほどあたたかな一時の中、侯爵家に代々受け継がれるというネックレスがあたたかな日差しを受け、あたたかく光る。
婚約者もどきの公爵令嬢は、もういなかった。




