第38話
扉を勢いよく開け、フロアを一気に走り抜ける。イードンの驚く声が聞こえたが、アシュリーが足を止めることは無かった。
玄関ホールを抜けると、冷たく澄んだ空気がアシュリーを包んだ。日が落ち始めた空は薄紫色に染まっており、星が輝き始めている。会場の賑やかな音は小さくなり、近づいてくる夜の静寂を感じさせた。
マーガレットは外でジェラルドを見かけたと言っていた。きっと近くを警備で回っているはず。アシュリーは、長い丈のドレスだというのに、裾を持ち上げ、本格的に走る。公爵令嬢としてあるまじき格好だが、今日ばかりは見逃してほしいとアシュリーは心の中で願う。
ただただ、早くジェラルドに会いたかった。
日頃走っているとはいえ、学園の敷地はとにかく広い。どこまで体力が持つか心配になるが、それは杞憂に終わった。すぐ横にある東屋でその姿を確認することができた。
東屋の柱に寄りかかるジェラルドは、読めない表情を浮かべながら、静かに噴水を眺めていた。
アシュリーは思わずその姿に見とれてしまう。一度も見たことのない騎士の制服を身にまとっていて、それがとても似合っていたのだ。
崩すことなくかっちりと着こなされた白い制服は、ジェラルドを凛々しく魅せた。隊長以上が身に付けるマントが風に揺らめく姿は、背景に東屋があることで、まるで絵画のよう。とアシュリーは一人思ってしまう。
自分の気持ちを自覚したアシュリーにとって、通常の光景すら、美しくかけがえのないものに思わせた。
声をかけようとする前に、ジェラルドがアシュリーに気がつく。驚いた表情を浮かべながら、アシュリーの元へと駆け寄った。
「あれ、アシュリーちゃん。どうしてこんなところに……」
「ジェラルド様こそ、どうしていらっしゃることを秘密にしたのですか。つれないです」
アシュリーの少し非難めいた言い方に、ジェラルドは眉を下げる。
「ごめんごめん。……ほら、今日はアシュリーちゃんにとって一大イベントでしょ? 殿下に集中してほしくって。って、そうだ! そういえば、舞踏会はどうしたの? 殿下とのダンスは……?」
ごもっともな質問をジェラルドはぶつけてきた。舞踏会を楽しんでいるはずのアシュリーが、こうやって外に出ていることに困惑しているらしい。
どう答えたものやらとアシュリーは悩んでしまう。そもそも勢いでここまで来たのは良いけれど、どうやって、何を切り出せばいいのだろうか。
言葉に迷っていると、ジェラルドは勘違いしたのか、キャラメル色の目を大きくしながら派手に慌て始めた。
「も、もしかして、断られた!?」
「ち、違います!!」
間髪入れずに否定する。思わず声が大きくなってしまった。
アシュリーは、自身のはしたない行動に顔を赤く染めながら、咳払いをする。
「殿下は、ダンスのお相手をしてくださいました。私が欲しかった、心ある賛辞もいただくことができました」
アシュリーはジェラルドを見つめながら淡々と告げる。ジェラルドは微笑んでいるのに、何故だか辛そうな表情を浮かべていた。切なげに揺れる瞳から目が離せない。
「……そっか。じゃあ、アシュリーちゃんの気持ちは成就したんだね。……よかった、うん、よかった」
「その、そうなんですけど、そうじゃないんです!」
一人で話を終わらせようとするジェラルドに、アシュリーは異議を唱える。
勢いよく否定されたことに、ジェラルドは驚いたのか目をぱちくりさせていた。
否定したからには、今の気持ちを話さなければならない。覚悟を決め、告げることにした。
胸の高まりなのか、緊張なのか、分からないままアシュリーの心拍数はあがっていく。
「……殿下と踊れば、それはもう人生最大の幸せを味わえると思っていました。でも、実際は違いました。達成感はありましたが、それだけでした」
溢れてしまう気持ちに急かされ、少し早口になってしまう。
ジェラルドは一言も漏らすまいと、ただ静かにアシュリーの告白を聞いてくれていた。
「私はその時、気がつきました。私の気持ちは憧れに近いもので……、ただ私のことを認めてもらいたかっただけだったのです。認めてもらうだけで、良かったのです」
「アシュリーちゃん……?」
「どんな人にも平等で、紳士的で、王子様な殿下に、私は憧れていただけだったのです。憧れの人に、個人的なお言葉をいただけただけで、もう十分でした」
そう。振り返ってみれば、アルフレッドのどういうところが好きなのか、アシュリーは満足に挙げることができなかった。
アルフレッドは当時のアシュリーの周りで唯一紳士的な対応をしてくれる人物だった。だからこそ傍にいたいと思っていたし、好意を抱いていた。その気持ちに間違いはなかったが、どちらかと言うと、それは憧れや尊敬の色が強かった。それ故に、夢でアルフレッドのガッカリな台詞を知っても、アルフレッドへの好意は変わらなかった。
本心では横綱なアシュリーのことを婚約者もどきと思っていても、表には出さず平等に淑女として扱ってくれた。その王子としての責務を果たそうとする姿勢に、アシュリーは尊敬していただけだった。
「そのことに気づけた私は、もう一つとても大事なことに気がつきました。私は、もう人生最大の幸せを味わえていたのです。……ジェラルド様と踊ったダンスや毎週のトレーニング。私にはあの時間が何にも変えがたい幸せでした」
核心に迫る分、心臓の鼓動は早まる。白亜の邸宅から聞こえてくる音楽や語らう声は消え、自分の脈打つ音しか聞こえない。
考えをまとめることもできずに、アシュリーは夢中になって言葉を紡ぐ。
「半年間、ジェラルド様と一緒に過ごせて、私はとても変わりました。体型はもちろん、心構えも随分と変化したのです。もちろん、良い意味で、ですよ? 私は、私はそのおかげで私の人生を好きになれました」
――――どうして、どうして、よりによってもどきに転生なのよ!
そう嘆いた当時では想像も出来ないほど、アシュリーは今の人生を気に入っていた。
それぞれちょっぴり思惑はあるものの温かい家族に、アシュリーの頑張りを応援してくれる使用人や友人。怠惰に過ごしているだけでは気づけなかった。自分がこんなにも恵まれて、幸せであることに。
気づくことが出来たのは、そう、ジェラルドがいたからだった。
話しながらジェラルドとの思い出が過っていくアシュリーは、温かい気持ちで満たされていた。表情も声色も、ただただ優しいものになる。
「このオリエンテーションのために、いっぱい私に時間を費やしてくださったのに、ごめんなさい。成就しませんでした。そこに私の気持ちはありません」
アルフレッドへの気持ちを否定したアシュリーが次に告げる言葉は、もう決まっていた。
「だって、だって私は、――――ジェラルド様のことが好きなんです」
満面の笑みを浮かべるアシュリーはジェラルドのことを真っ直ぐ見つめながら、自身の気持ちを口にした。恥ずかしい気持ちもあるし、怖い気持ちもある。でも、見つめていたかった。どんな反応も受け入れたかった。
アシュリーの思いもよらぬ告白にジェラルドは唖然とする。そんなに驚く発言だっただろうかと不思議に思いながら見つめていると、ジェラルドの顔に朱が滲む。そのままジェラルドは片手で自分の顔を押さえ、視線を横にずらした。
「アシュリーちゃん、それは……、反則だって」
そう呟くとジェラルドは一度目を閉じて、深く息を吐いた。顔を覆う手が外れ、キャラメル色の瞳がアシュリーのことを真っ直ぐ見つめる。
「アシュリーちゃんにはいっつも先を越されちゃうな。俺もアシュリーちゃんのことが好きだよ。もう、ずっと前から」
頬に朱を注いだまま、ジェラルドは満面の笑みで気持ちを言葉にした。
ジェラルドの思いもよらぬ告白に、今度はアシュリーが言葉を失う。こんな、こんな話があるだろうか。ジェラルドが、自分のことを好きだなんて……。
込み上げてくる幸福感に、涙が出てしまいそうだ。
「今日だって、ううん、自分の気持ちを自覚してから毎日か。天国と地獄を行き来してて、本当に辛かった。一緒に時間を過ごせるのは楽しくて幸せだったけど、その目的は殿下だったし……。自分の気持ちを抑えなきゃいけないと理性では分かってるのに、欲が出ちゃう自分に自己嫌悪が止まらなくて」
ジェラルドはゆっくりとアシュリーの両手を自身の両手で包む。理解が追い付かないアシュリーの名をジェラルドが愛しげに呼ぶ。
「アシュリーちゃん、もう抑えなくていいんだよね? いや、もう抑え切れないや。アシュリーちゃん、どうか俺の傍にいてください。俺にはあなたが必要なんです」
手から伝わる温もりと、少しの緊張。それは間違えようのない現実で、込み上げてくる歓喜も現実だった。
「ジェラルド様、本当ですか……? 私のことを……」
「あはは、ここまで言って疑っちゃう? 足りないのなら、アシュリーちゃんが音をあげるまで付き合うけど」
ジェラルドはそう言うと気取った笑みを浮かべながらウインクをする。これは本当にアシュリーがもういいというまで続けそうだ。
「だ、大丈夫です! よ、よく分かりました!」
「そう? ちょっと残念。じゃあ、今度のお楽しみってことで」
アシュリーの反応が面白いのか、ジェラルドは笑みを濃くする。さっきまで顔を赤くしていたのはジェラルドの方だと言うのに、今じゃアシュリーの方が顔が赤かった。
「……ところで、アシュリーちゃんの返事、聞かせてもらってもいい?」
優しい声で促すジェラルドに、アシュリーの顔は更に赤くなっていく。触れたら負傷者が出るのではなかろうか。そう思わずにいられないほど、頬は熱を持っていた。
この嬉しい気持ちをどうやったらジェラルドに伝えられるのだろうか。言葉で伝えようにも、どれも足りないように思えてしまう。
触れる手に力が入る中、アシュリーはふと思った。手が触れるだけでも嬉しいのに、ダンスで踊る時以上に触れ合ったら、どうなるのだろうか。この気持ちを、伝えられるだろうか。
試してみたくなったアシュリーは、繋がる手を一度離すと、一気にジェラルドの胸へと飛び込んだ。
驚く声を上げるジェラルドを無視して、アシュリーはそのままその背中に手を回す。顔を見ることが出来ないのは寂しいが、真っ赤になった顔を見られることがないのは好都合だった。
「私も、もっと、ジェラルド様と一緒にいたいです」
背中に回した手に力を入れる。すると、ゆっくりとジェラルドも、アシュリーの背中に手を回してくれた。伝わる温もりは、温かくて幸せで。ああ、どうしてこんなにも安心できるのだろうか。
「ほんと、アシュリーちゃんってずるいね」
少し拗ねた調子でジェラルドは言う。その反応が面白くて、アシュリーはつい、にやついてしまう。気持ちはたぶん届いたはず。
このまま温かな幸せに浸っていたい。そう思うアシュリーだったが、ふと気になる音楽が聞こえてきた。
邸宅から聞こえてきたその演奏は明るい曲調のワルツだった。アシュリーの中で突然名案が浮かぶ。
寂しさを覚えながら身体を離し、アシュリーは不思議そうな顔をするジェラルドを青い瞳で見つめた。
「ずるいついでに我儘を言ってもよろしいですか? その、もう一度、ジェラルド様と踊りたいのです。勤務中であることは、重々承知ですが……」
「公爵令嬢の警備という名目で、一曲だけなら。……お手をどうぞ」
差し出された手に、アシュリーは優しく自身の手を重ねる。重なった瞬間のジェラルドの笑みが、今まで見たことがないほど、幸せそうで、見ているこっちまで幸せになってしまう。
微かに聞こえるメロディに合わせ、ステップを踏んでいく。触れる手、重なる視線、どれもアシュリーの心を大きく揺さぶる。
人生最大の幸せを味わえていたと言ったばかりだが、どうやらそれは嘘だったようだ。
「私、先程嘘をつきました。今が人生で一番幸せです」
アシュリーの告白に、ジェラルドは甘く微笑む。
「じゃあその言葉も嘘になるよう、もっともっと一緒に思い出作ろう?」
「……はいっ!」
アシュリーはキャラメル色の瞳を見つめながら、幸せいっぱいに返事をした。




