第35話
公爵家の座り心地の良い馬車に揺られながら、アシュリーは侯爵家へと向かっていた。
今日は、最後のトレーニング日。ついにこの日が来てしまった。
アシュリーは膝の上に乗せた両手を握りしめる。ドレスも一緒に強く握ってしまいそうだったが、しわになってはまずいと力を緩める。今日着ているドレスは、来週に控えた学園のオリエンテーションで着用するドレスだった。
ドレスは春を意識した軽やかな水色のドレスで、裾部分には薔薇の刺繍が銀の糸で施されていた。コルセットで体型を補正しつつ、高い位置で切り替えられたデザインによって、まだまだ気になる箇所のある部分をフォローしている。
デザイナーがアシュリーの更なる変化に驚き、自分の腕を活かせることに感涙にむせびながら作成したドレスということもあり、今のアシュリーに一番似合うドレスが完成した。
着用して初めて自分の姿を鏡で見た時にはアシュリーも大変驚いた。大きな青い瞳に、美しいプラチナゴールドの髪。釣り目で気の強そうな、でも温かみのある雰囲気。そして、少しふっくらしている部分があるものの、優美で美しい。そんな自分がいた。横綱はいなかった。
思わず、目頭が熱くなってくる。夜中に自重しつつ叫んだ時の嘆き。いっぱい失敗もしたし、迷惑もかけた。それでもここまで来れたのは周りにいる人のお陰だった。そして誰よりも支えてくれたジェラルドのお陰。
馬車に揺られながらアシュリーは、気持ちを固める。無理を言って作ってもらった最後のトレーニング。オリエンテーションで確かな成果を得られるように、細かな部分まで指摘してもらって、直せるところは直して、そして、最後まで楽しもう。
馬車の速度は落ちていき、ゆっくりと止まる。ついに侯爵家に到着した。
御者が扉を開けてくれるのを待つ。少し心拍が速い気がする。せっかくの時間なのに、この緊張では勿体ない。深呼吸を一つする。
馬車の扉が開いた音がする。降りようとしたアシュリーだったが、動きが止まってしまう。
「アシュリーちゃん、ようこそ。待ってたよ」
御者が降りるのを手伝ってくれるはずが、何故だかジェラルドがアシュリーに手を差し伸べていた。ジェラルドは玄関の前で待っていると思っていたアシュリーの心拍は、せっかく落ち着いたというのに、優しい表情で見つめるキャラメル色の瞳のせいで、また速くなってしまった。
なんとか手を借りて馬車を降りる。久しぶりに見たジェラルドは、アシュリーの見慣れた私服姿であった。騎士姿ではないのが少し残念だったが、慣れている格好の方が変な緊張をしなくて済みそうだ。これで良かったのかもしれない。
「ジェラルド様、ありがとうございます。お出迎えいただけて嬉しいです」
「どういたしまして」
優しい微笑みにアシュリーの気持ちも温かくなる。今日一日はとても良い日になりそうだ。
穏やかな気持ちになるアシュリーだったが、ジェラルドはそんなアシュリーの平穏を奪うような言葉をプレゼントしてくれた。
「……アシュリーちゃん、とっても綺麗だね」
思いもよらぬストレートな褒め言葉に、頬が熱くなる。飾り気の無いシンプルさが、アシュリーの心に真っ直ぐと届く。暢気に良い日になりそうだと思っていたアシュリーは、命がいくつあっても足りない日になりそうだと考えを改めた。
ジェラルドに案内された場所は、以前劇が行われた広間だった。窓から差し込む光が磨き上げられた床を照らし、綺麗に輝いている。広々とした空間には二人しかおらず、静寂が場を支配していた。
「じゃあ……、はじめようか」
寂しげにジェラルドの声が響く。いつも通り優しく微笑むその表情からは読み取れないが、少しはジェラルドも最後のトレーニングに感傷的になっているのだろうか。そうだったら嬉しい。なんて思いながらアシュリーは差し出された手を取って、ステップを踏み始めた。
オリエンテーションの舞踏会は、最初にワルツなどの二人で踊る曲が流れ、中盤以降は賑やかで全体で盛り上がる曲が用意される。全体の親睦を深めるために、参加者が多かったり、パートナーが何度も変わる曲は会場が温まり始めた頃に演奏されるのが習わしだった。
古典的なものから流行のものまで、ありとあらゆるダンスが用意されているので、アシュリーはジェラルドから様々な手ほどきを受けることになった。
踊れていなかった期間が長かったとはいえ、一応教養としてステップや手の動きを覚えていたので、これまでは誤魔化しながらではあったが、どの曲も対応しきれていた。ただ、褒められるほどのものではなかったので、このトレーニングを機に、もう一段上の高みに行けるようアシュリーはジェラルドからのアドバイスを真剣に聞いていく。
あっという間に時は過ぎ、いつの間にか窓からは西日が差し込んでいた。蝋燭はまだ灯されておらず、室内は黄金色と影の二色に包まれる。見ているだけで感傷的な気分にさせるその光景は、アシュリーに悲しい現実を突きつける。――――もうすぐで終わりの時間だ。
ジェラルドも時間が過ぎていることに気づいたようで、動かしていた足を止める。
「時間が経つのはあっという間だね。もうこんなに暮れちゃってびっくりだよ」
「さっきまでお昼だったのに、不思議ですね」
「そうだね。……次で、最後にしよっか。一通り教えられたと思うけど、まだ気になるダンスとかある?」
最後という言葉がやけに耳に残る。ジェラルドから十分教えてもらえたので、特に気になるダンスは無かったが、最後ということもあり、アシュリーは個人的に踊りたいダンスを伝える。
「それでは、ワルツでもよろしいですか? その、気になると言うか、ジェラルド様と一緒に踊った最初の曲ですし、最後に相応しいかなと思いまして」
「うん、そうしよっか。殿下と踊るとしたら、きっと序盤だし、ワルツの可能性が高いから練習としても丁度いいね」
ジェラルドは笑顔で快諾すると、背筋を正して、アシュリーを見つめる。差し出された手は見慣れたものだ。この手に何度エスコートしてもらい、何度支えてもらったことだろうか。
「アシュリーちゃん、どうぞ」
アシュリーは返事の代わりに手を重ねる。手袋越しに伝わる手の感触。半年続いていたトレーニングが終わってしまうと思うと、この感触すらアシュリーにとってかけがえのないものに思えた。
ジェラルドがゆっくりとステップを踏み始める。アシュリーもそれに合わせて足を動かす。二人の間に会話はなく、とても静かだった。
何か気の利いたことを言えればいいのだが、アシュリーは何も浮かばなかった。
伝わる手の温もり、優しく見守るキャラメル色の瞳、西日に照らされ輝く栗色の髪。ただただ目の前のジェラルドのことで頭がいっぱいだった。落ち着いていた心拍も速くなっていく。どうしてこんなに気持ちが乱れるのだろうか。これで終わってしまうと思うと寂しいからなのだろうか。それとも緊張からだろうか。もしそうだとしたら、どうして緊張を――――。
ジェラルドを見つめながら考えに耽るアシュリーだったが、ステップを踏み間違え、思わずジェラルドの足を踏んでしまう。
「ご、ごめんなさい!」
「気にしないで。全然、痛くないから」
アシュリーの失敗に、ジェラルドは優しい言葉をかけてくれた。淡く微笑むその姿に、アシュリーは無性に泣きたくなった。毎週触れることができたこの優しさと別れなくてはいけない。その事実が、アシュリーの胸を締め付ける。
その後も何度かステップを踏み間違えてしまったが、ジェラルドは全て許してくれた。
一通り踊ると、二人は自然と足を止めた。密着していた身体が離れて行く。
この半年間はとても楽しくて、日々の変化は夢のようで、終わってほしくなかった。それでもついに、その時が来てしまう。
アシュリーは苦しいのか、寂しいのか、切ないのか、よく分からない感情を抱きながら、ジェラルドに頭を下げた。
「ジェラルド様、本当にこの半年ありがとうございました。最後のダンス、綺麗に踊りたかったのに、何度も踏んでしまってごめんなさい」
「さっきのダンスは気にしなくていいよ。いっぱい色んなダンスをしたから、疲れていただけだと思うし。……俺の方こそ、ありがとうね。アシュリーちゃんのお陰で、毎日が楽しかったよ。公爵家を訪れるのが、何よりの楽しみだった」
「ジェラルド様……」
「……名残惜しいけど、おひらきにしよっか」
ジェラルドの言葉にアシュリーは静かに頷いた。




