78 戦略
「中原に大移動して来るってこと?」
ロックの無邪気な問いに、今度はゾイアが答えた。
「いや。いくらなんでも、蛮族がそれほど舟を持っているとは思えん。ついこの間まで、水辺に近づくことさえなかったのだからな。取り敢えず、中原侵攻への橋頭保を作るのが目的だろう。いずれにせよ、何故かれらが短期間でそれだけの知識を身につけたのかは、謎だが」
ロックが悪戯っぽく笑った。
「それは、そっくりそのまま、おっさんの謎だよ。おいらと出会った頃は、右も左もわからなかったくせに」
ゾイアも苦笑した。
「自分で言うのも憚られるが、努力したのだ。最初、何とか中原の言葉は話せたし、剣の使い方などは身体が覚えているようだった。しかし、それ以外の知識は、殆ど無かった。だから、必死で他人の話を聞いた。直接質問できる時には何でも尋ねてみた。そうして少しずつ知識を蓄えたのだ。先程の上流の河湊の話など、ほぼペテオからの受け売りだ」
マリシが、「だが、ペテオには、その裏の事情への洞察力はないがな」と笑った。
ゾイアは表情を改め、「われのことはともかく」と話を続けた。
「至急為すべきことは、上流の集積地だけでなく、対岸の全ての河湊を護る人員を送ると共に、敵の上陸地点を突き止め、陣地化される前に、これを叩くことだと思う」
マリシが「とても手が足りんな」と呻いたところへ、内壁側の城門の方から「只今帰参! 父上は何処におられるか!」と呼ばわるマーサ姫の声がした。
マリシは嬉しそうに、「おお、うるさい娘が戻ったようだ」と笑った。
兜を外したのみで鎧も脱がず、ズカズカとマリシの執務室に入って来たマーサ姫は、一緒にいるゾイアとロックを見て怪訝な顔をしたが、マリシからあらましを聞いて頷いた。
「それなら話が早いですわ。各河湊へ送る守備兵の編成を始めましょう。蛮族に上陸されたリードという湊町へは、バロードの機動軍が奪還に向かう手筈ですから」
「機動軍?」
マリシの問いに、マーサ姫はエメラルドグリーンの瞳を輝かせた。
「はい。かのシャルム渓谷の英雄、ニノフどのが新たに将軍となって率いるそうですわ」
その機動軍の新将軍であるニノフは、バロード共和国総裁のカルボンの机の前にいた。
相変わらず、カルボンの机の上は、書類が堆く積まれている。
「総裁閣下、増員をお願い申し上げます」
書類に署名する手を止めて、カルボンは反問した。
「蛮族二千名であろう? 騎兵千名で充分ではないのか?」
渋い顔でそう言うカルボンに、ニノフは首を振った。
「包囲戦は敵の倍以上の戦力で攻めるのが常道です。勿論、敵は不慣れな場所に侵攻して来たばかりで、城塞化している訳でもありませんから、そこまでは必要ないでしょう。しかし、せめて同数は必須です」
「だが、シャルム渓谷では」
「自分で言うのも何ですが、あれは僥倖というものです。戦の理想は、敵を上回る戦力を集め、でき得れば、戦わずして勝つことです。そこまでは申しませんが、わざわざ不利な条件で戦うのは下策というものです」
カルボンの削いだように頬がこけた陰気な顔が、青くなった。
普通の人間とは逆に、怒るとそうなる体質らしい。
「少しぐらい手柄を立てたからとて、いい気になるな! 総裁のわしが千騎で充分と申しておるのだ!」
「お言葉ながら」
猶も抗弁しようとするニノフに、カルボンは椅子から立ち上がって怒鳴った。
「無礼であろう! もうよい、下がれ! 早々に準備して出立せよ!」
「はっ」
ニノフは強張った表情のまま頭を下げ、退室した。
庁舎の入口では、今は副官としてニノフを補佐している黒髭のボローが待っていた。
「どうだった、と聞くまでもないな、その顔は」
ニノフは憮然としたまま、肩を竦めた。
「ああ。仕方ない、作戦変更だ」
「まあ、しかし、傭兵騎士団出身者ばかりの精鋭の千騎だ。後れをとることはあるまい」
慰めるように言うボローに、ニノフは小さく頭を下げた。
「すまぬ。創設されたばかりのわが軍は、実質的には千人隊にすぎぬ。他の将軍から援軍を貰うしかない立場だ。総裁に、他の将軍を説得していただこうと思ったのが、甘かった」
「いいさ。おれたちがいつも以上に頑張ればよいだけの話だ」
ボローが元気づけようと言えば言うほど、ニノフの不安は増すようだった。
「戦の前に将軍が言うべきことではないが、悪い予感がするのだ」
ニノフは救いを求めるかのように、天を仰いだ。




