68 姫御前
その少し前。
自分から片手で木剣を持つと提案しながら、役人に「では、そうしろ。但し、木剣を持つのは利き腕ではない方の手だ」と告げられ、ゾイアは困惑した。
同じスカンポ河の滸でも、ここより随分下流の方でウルスと出会って以来、そのようなことを考える暇など、一度もなかったのだ。
もし、充分に時間の余裕があるのなら、これを契機として、ゾイアが自ら無意識の裡に封印している問いかけ、即ち、「自分は何者なのか?」という疑問に触れざるを得なかったであろう。
だが、今もまた闘いの直前であり、ゾイアの意識はスルリとそこを通り抜けた。
ゾイアは両手を自分の顔の前に出し、手を開いたり握ったりして、どちらが利き腕か調べてみた。若干だが、右の方が力が入る。
「うむ。たぶん右が利き腕のようだ。であれば、左で木剣を持とう」
それでも、先程の疑問が頭の片隅に残っており、普段のゾイアよりも力が抜けていた。
本当に手強い相手なら、或いは危なかったかもしれない。
しかし、拍子抜けするほど、相手が弱かった。
特に太った男の方は、普段から剣を持ったことなどないようだった。
木剣の握り方が甘く、ゾイアの後ろ回し蹴りで、簡単に弾き飛ばされた。
腰砕けになった黒髭の男の方も、ダメ押しする必要もなさそうだ。
「このようなもので、如何だろう?」
ゾイアは役人に尋ねたが、相手は口を開けたままだ。
向こうでは、ロックが、「いいぞ! おっさん!」と歓声を上げている。
ところが、座り込んでいた黒髭の男が「ちょっと待て!」と言って立ち上がった。
「卑怯だろ! 片腕で闘うって言ったじゃねえか!」
「それは違うな」
「何が違う!」
「われは、木剣を片手で使う、と言っただけだ。したがって、剣の間合いなら木剣を使い、腕が届く範囲なら拳を使う。武器に拘らないのが、われの流儀でな」
その時、床台の奥の部屋から「おまえの負けよ、ペテオ。いい加減で負け犬の遠吠えはお止めなさい」という、若い女の声が聞こえて来た。
ぺテオと呼ばれた黒髭の男は愕然としている。
と、奥の部屋との間を仕切る布幕がスルスルと左右に割れ、中から赤い甲冑を身に着けた人物が現れた。
面頬を下ろしているため顔は見えない。
口を開けっぱなしだった役人が慌てて口を閉じ、体を二つに折るように頭を下げると、「こ、これは大変見苦しいところを。も、申し訳ございません、マーサ姫!」と謝った。
マーサ姫と呼ばれた赤い甲冑の人物は、兜を脱ぎ、応募者の名簿が乗ったままの机の上に置いた。
同時に、兜の中で纏められていた見事な金髪がバサッと拡がった。
エメラルドグリーンの瞳をした美しい娘だが、その表情は実に厳しく冷たいものであった。
「随分手抜きをしたものね。それとも、心ここに非ずという状態だったのかしら?」
ペテオが「いえ、決して手抜きなど」と言いかけると、マーサ姫はピシリと「おまえに言ってるんじゃありません」と告げた。
「ならば、われの方だな」
ゾイアは笑顔でそう言ったが、マーサ姫は表情を緩めず「何故?」と畳み掛けた。
「うむ。別に手を抜こうと思った訳ではない。利き腕のことを訊かれたのでな」
「利き腕?」
「ああ。考えたこともなかった」
「よく意味がわからないけど、北方警備軍を馬鹿にしているの?」
「おお、そのようなことはない。われはただ、連れのロ、いや、レックスと一緒に雇って欲しいだけだ」
マーサ姫の顔に、嘲笑うような表情が浮かんだ。
「なるほど、恋仲ってことね」
これにはロックが黙っていられず、「冗談じゃねえ。万が一、おっさんの方がそうでも、おいらが断る!」と叫んだ。
ゾイアも苦笑いし「そういうことだ」と述べた。
「じゃあ、いいわ。わらわが認めてあげる。今日からあなたたち二人は、北長城の一員よ。但し、わらわに勝ったらね」
マーサ姫はスラリと細剣を抜いた。
同時に、始めてニッコリとした笑顔を見せた。
ゾイアも笑顔になり、「今度は、いや、今度こそ手抜きはせん」と、木剣を片手のままレイピアのように構えた。
それを見たマーサ姫は、「誰か、この者にレイピアを渡してやれ」と命じた。
「いや、これぐらいが丁度よい不利益だろう」
ゾイアのその言葉を聞いて、マーサ姫の体からメラッと殺気が立ち昇った。
「ほざいたな!」
甲冑の重さを感じさせない動きでテラスから飛び降りると、マーサ姫はゾイアの顔に向け、空気を切り裂くように鋭くレイピアを突き出した。




