57 海賊の島(1)
その頃、ウルスの乗った早船は、漸くスカンポ河の河口から南の大海へ出ようとしていた。
「ああ、これが潮の香りなんだね」
少しだけならという条件付きで甲板に出ることを許されたウルスは、初めて体験する海というものに言い知れぬ感動を覚えているようだった。
その隣で一緒に潮風に吹かれながら、ツイムは「まだまだほんの入り口ですよ」と答えた。
その表情は、北長城を出発して以来初めて見るような喜びに溢れていた。
ウルスもそれに気づき、「嬉しそうだね」と笑った。
ツイムは珍しく含羞んだ。
「やはりそう見えますか。自分ではとっくに、海を恋しく想う気持ちなど捨てたつもりだったのですが」
「え、どうして?」
ツイムはちょっと困った顔になった。育ちの良さなのか、ウルスが相手の微妙な感情など全く忖度しないことは、一緒に旅をしてよくわかっていたからだ。
ハッキリ答えない限り、質問攻めされる。
この際、正直に言った方が良いと判断した。
「恥を申し上げます。わたしは嘗て、海賊を生業としておりました」
「海賊って、海の野盗団みたいなもの?」
「もっと悪いものですよ」
ツイムは苦笑して話し始めた。
……南の大海に面した沿海諸国は、北側をスーサス山脈に隔てられ、さらにその北はアルアリ大湿原ですから、中原の戦乱の影響を被ることなく、千年の平和を享受しております。
しかし、この地域全般に言えることですが、山沿いの斜面が多く、また海の塩気も影響して、殆ど穀物ができません。
そこで、豊富な海産物や香辛料などを売り、小麦や雑穀を買い付けるため、スカンポ河を遡上する西廻り航路が早くから発展していました。
同時に、その船を襲って積み荷を奪う海賊も、頻繁に出現するようになったのも、当然の成り行きでした。
沿海諸国周辺の海域が、多くの島嶼が犇めき合う多島海となっており、海賊の棲み処として打って付けだったことも、海賊の隆盛に一役買っていたのでしょう。
漁師の三男坊であったわたしは、うんと若い頃から堅気の暮らしに見切りをつけ、そうした海賊の一味である『ラカム水軍』に入っていたのです。
今思い出してもゾッとするような悪事を、平気でやっておりました。
『ラカム水軍』のやり口は、基本的に皆殺しでした。
襲われる側も、傭兵を中心とした警備船団を巡洋させていたので、油断がならなかったのです。
そんなある日、ちょうどこの船のようにスカンポ河からカリオテに向かう早船を襲ったことがありました。
いつもの手順で略奪している時、積み荷の陰で震えている母子を見つけたのです。
子供は七、八歳ぐらいの男の子でしたが、母を庇うように両手を広げて前に立ち、「おいらの母ちゃんに指一本でも触れたら、ただじゃ置かないぞ!」と叫びました。
言葉の訛りからして、わたしと同じカリオテ人のようでした。
わたしは不意に自分の母親を想い出し、助けたいと思ったのです。
しかし、それが命懸けの行為であることは、よくわかっていました。
見つかれば拷問され、生きたままザリガニの餌にされるのが決まりでした。
わたしは母子に静かにするよう言い、こっそり救命用の小舟に乗せると、隙を見て海に逃がしました。
ホッとしたのも束の間、突然後ろから羽交い絞めにされ、親分のラカムの前に連れて行かれたのです。
言い訳は一切しませんでした。
言ったところで、通じる相手でもありません。
わたしは寄ってたかって痛めつけられました。
それが済むと、顔に麻袋を被せられ、手足をロープで縛られて、河口付近のガンクだらけの水中に沈められたのです。
後悔はしていませんでしたが、あの母子が無事に逃げ切れたかどうかだけが気懸りでした。
身体に錘を付けられていたため、わたしは一気に水底に着き、ガンクの鋏に体中の皮膚を切り裂かれ、声にならない絶叫を上げていました。
皮肉にも麻袋のお陰で顔は無事でしたが、あまりの痛みに気を失いました。
意識を取り戻した時、自分がどこにいるのか、全くわかりませんでした。
そこは、北長城へ物資を運ぶ早船の甲板の上だったのです。
自分を覗き込んでいる髭面の巨漢が誰なのか、その時には想像もつきませんでした。
それが、若き日のマリシ将軍であったのです。
マリシ将軍はわたしが目醒めたのを確認すると、後ろを向いて「良かったな。おまえたちの恩人は助かったぞ」と声を掛けました。
そこには、あの母子がいたのです。
あの後、母子の乗った救命舟はマリシ将軍の早船に助けられていたのでした。
わたしはホッとし、涙が溢れるのを止められませんでした。
そんなわたしを見て、マリシ将軍が「わしの許に来るがよい」とおっしゃってくださったのです……。
「それからずっと帰らなかったの?」
そう尋ねるウルスの瞳は、濡れていた。
他人の気持ちがわからなくはないのだなと、ツイムは少し笑ってしまったが、「そうですね」とだけ答えた。
「じゃあ、懐かしい人たちにも会えるんだね」
そう言って笑顔を見せるウルスに、やはりわかっていないのだな、とツイムは吐息混じりに応えた。
「懐かしいだけなら、良いのですが」
そう告げて、ツイムは遥か沖合いを見つめていたが、ふと、眉を曇らせた。
「お気をつけください。嵐が、来るかもしれませぬ」




