56 再出発
漸く首領の姿を見つけたティルスは、邪魔をする敵を斬り伏せながら、何とか傍に駆け寄った。
ルキッフは傷ついたドメスを抱きかかえながら、片腕だけで剣を振るっていた。遅れた原因はこれであろう。
「お首領、ドメスさまは大丈夫ですか?」
それには直接本人が「すまん」と答えた。
「足手纏いになるだけじゃから、捨てて行ってくれとお願いしたのだが」
「ふん、お爺を置いて行くくらいなら、この場で討ち死にするさ。で、城門はどうだ、ティルス?」
「はっ。何とか確保しましたが、残念ながら馬は逃げたようです」
ルキッフもさすがに「そう、か」と沈んだ声を出した。
その時、再び、あの猛獣のような咆哮が聞こえた。
「あれは何でしょう?」
訝るティルスに、ルキッフは苦笑いして見せた。
「そうか。おれがクルム城に斥候に行って、流れ着いたおまえを見つけたのが前の日だから、襲撃の日にはおまえはまだ砦で寝ていたな。まあ、見なかったのが幸いさ。一度話したことがあると思うが、怪我をすると獣に変わるやつだよ。だが、今回は禍転じて、ってことになりそうだな。馬が逃げたのは、もうどうしようもねえが、恐らく『暁の軍団』も、おれたちを追いかけるどころじゃなくなるはずさ。その隙に、とっととズラかろうぜ」
ルキッフはドメスをティルスに預けると、荒野で鍛えた大音声で叫んだ。
「野郎ども、撤収だ! 力の限り走って逃げろ!」
ルキッフの言うとおり、『暁の軍団』は大混乱に陥っていた。
獣人化したゾイアの怪力は、圧倒的であった。
取り囲んでいた数人を、腕の一振りでアッという間に薙ぎ倒してしまった。
同時に、激しい動きに耐えらなくなった胴着がビリビリに裂け、剛毛に覆われた体が剥き出しになった。
弓などでは歯が立たぬと、ザクブルは己の所有する一番大きな戦斧で挑んだが、両の掌で斧を挟み込まれ、驚くべきことにそのままザクブルの体ごと放り投げられたのだ。
それを見ていた他の闘士たちは、すっかり戦意を喪失し、我先にと逃げ出した。
露台から、その一部始終を見ていたバポロは、酒焼けした鼻を一層赤くしながら、腹心の部下を怒鳴りつけた。
「ええい、何をしている! 早くあの怪物を取り押さえろ! 殺すなよ! あれを我が物にすれば、余はすぐにでも領主じゃ! いや、それどころか、中原すら手に入るかもしれん! 早う捕まえよ!」
腹心の部下は、強く頭を振った。
「団長、お言葉ではございますが、捕らえるどころか、このままでは皆殺しにされまする!」
「情けない声を出すな! もうよい、下がれ! 誰かおらんか!」
いつもならすぐに駆け付けるはずの小姓たちが、一人もいない。
怖れをなして、すでに全員逃げていたのだ。
バポロが自ら立ち上がって誰かを呼びに行こうとした時、バルコニーの外側でドーンと大きな音がし、続いてメリメリとバルコニーの床が軋んだ。
バポロが振り向くと、今将に捕まえろと言っていた怪物が、バルコニーの縁に乗って、こちらを睨んでいる。
なんと、中庭からここまで跳躍して来たのである。
「お、おい、何とかしろ」
バポロは先程まで叱りつけていた腹心に助けを求めたが、何も言わず這うようにして逃げて行くところだった。
「こら、余を置いて行くな。連れて逃げろ!」
「申し訳ございません!」
腹心が止まることはなく、逆に、獣人となったゾイアが、一跳びで、バポロの眼前に迫った。
「わ、わかった。おまえを捕まえたりせぬ。大人しく帰ってくれ」
ゾイアは大きく口を開き、牙の間からダラダラと涎を垂らした。
「よ、よせ。余を何だと思っておる。やめろ、やめてくれーっ!」
バポロが叫んだ瞬間、その酒臭い息に、ゾイアは鼻面に皺を寄せ、首を大きく振った。そのまま後ろに跳び退り、バルコニーから出て行った。
残されたバポロの表情が不意に弛み、床に大きな水たまりができた。
バルコニーから飛び降りて来たゾイアを、ロックが待っていた。
もう、目は普通の状態に戻っている。
「おっさん、確りしてくれ! 殆どみんな逃げちまったよ。リゲスももういないよ」
「リ、ゲ、ス……」
「そうさ。おいらの従兄弟さ。悪い奴だけど、死ななくて良かったとは、思う。ごめんな」
「い、や、それ、で、よい」
ゾイアの感情が落ち着くにつれ、顔が平らになり、体毛も短くなってきた。
「おっさん、もう大丈夫かい?」
「あ、ああ、心配、ない」
「じゃあ、一先ず逃げよう。こんなところ、長居は無用だよ」
「そう、だな。すまぬ。あまり、稼げなかった、な」
ロックは安心したように笑い、「仕方ないよ。また、仕事を探すさ。さあ、行こうか」と歩き始めた。
結局、二人は最後までリゲスと親しく話す機会がなかった。
そのため、リゲスがスカンポ河を南へ下る早船の中で誘拐しようとして、逆にやられてしまった不思議な少年の話を聞くこともなく、予定どおり北に向かったのである。




