453 メメント・モリ(3)
中原の中央に位置することから、別名を中原の臍とも云うエイサから、真っ直ぐ北へ進むと、東西に並行して何本も走る丘陵地帯が次第に密になり、高低差も大きくなって、最終的にはベルギス大山脈に突き当たる。
そのベルギス大山脈の麓に、プシュケー教団最大の拠点、聖地シンガリアがあった。
シンガリアは自由都市ではない。
住民は一万人を超えるが、常に流動しており、定住しているのは、教団上層部の人間だけである。
従って、固定した住居は木造の教団本部のみで、一般の住民は、他の地域では見られない丸い形の天幕に住んでいる。
その教団本部の奥まった一角に、教主サンサルスの執務室があるが、本人は今、そこにはいなかった。
サンサルスは更にその奥の寝室に、ここ数日、臥せっていたのである。
と、寝室の扉を軽く叩く音がし、「お目醒めでしょうか、猊下?」という声がした。
骸骨のように痩せさらばえた老人の姿で眠っていたサンサルスの目が開き、乾いて罅割れた唇から「少し、お待ちなさい」という掠れた声が漏れた。
サンサルスは深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
それを数回繰り返すうちに、骸骨のようであった顔に色艶が戻り、頭部に疎らに生えていた白髪が密度を増すと共に銀色に輝いて伸び、この世のものとも思えぬ美しい姿となった。
サンサルスは徐々に身体を起こし、寝台から脚だけ下ろして腰掛けた。
流れるようなサラサラした銀髪から先の尖った耳が見え、煙るように淡い紫の瞳が扉の方を見ている。
「お入りなさい、ヨルム」
その声は既に、若々しい少年のような張りが戻っていた。
「失礼いたします」
そう言いながら入って来たヨルム青年は、カップが載った盆を手に持っていた。
ベッドに腰掛けているサンサルスを見て、ヨルムは心配そうな顔になった。
「薬湯をお持ちしましたが、起きられて大丈夫でございますか?」
サンサルスは微かに苦笑した。
「偶にはちゃんと起きないと、そのまま逝ってしまいそうですから」
ヨルムが眉を顰めた。
「そのような悪い冗談を仰るものではありません。ささ、せっかく起きていらっしゃるなら薬湯をお飲みください。少し冷ましてありますから、すぐに飲めますよ」
サンサルスは「ありがとう」と言ってカップを受け取ると、一口だけ飲んでサイドテーブルに置いた。
今度はハッキリ苦笑している。
「温かさはちょうどいいですが、味は相変わらずですね」
ヨルムは肩を竦めて見せた。
「それは薬湯ですから。猊下のお好きな薬草茶のようにはいきません」
「わたしはその方がいいですね。どうせもう、効き目があろうとなかろうと、同じことですから」
ヨルムは困った顔で「駄目です。ちゃんと薬湯を飲んでください」と念を押した。
サンサルスは笑いながらもう一口飲むと、「おお、苦い」とカップを置いた。
「それで、代理教主のおまえが自ら薬湯を運んで来たのは、わたしに何か報告があるのでしょう?」
ヨルムは、今それを言うべきか迷っているようであったが、フッと息を吐くと、努めて平静な声でサンサルスに告げた。
「はい。バロードのカルス聖王が崩御された由にございます」
サンサルスは軽く目を閉じ、小さく祈りの言葉を唱えてから、目を開けた。
「そうですか。さぞやウルスラ王女が嘆き悲しんでいるでしょうね。先日、何かと王女に目を掛けてくだすったサンジェルマヌス伯爵もお亡くなりになったと聞きましたし。ああ、傍に行って慰めてやりたいくらいですが、そのわたしも、もう」
ヨルムは少し怒ったように言い返した。
「またそのようなことを。猊下にも恩師に当たるサンジェルマヌス伯が亡くなられて、気が弱っておられるだけです。早く元気を取り戻してください」
サンサルスは、改めてヨルムの顔を真っ直ぐに見た。
「いいえ。自分でもわかっているのです。わたしの寿命はもう、尽きようとしています。教団のことも、ウルスラ王女のことも、後はおまえに頼みます」
子供がイヤイヤをするように首を振るヨルムの目から、ポロポロと涙が零れた。
「おやめください! わたしは猊下のような賢者ではありません! 通りかかる旅人を襲っては喰っていた愚か者です! どうか、わたしを見捨てないでください!」
感情が激して泣き叫ぶヨルムに、サンサルスは優しく諭すように告げた。
「前歴がどうであれ、今は立派な宗教者ですよ。おまえに、二代目教主になることを命じます」
「駄目です! 代理教主をお引き受けしたのは、猊下の病が癒えるまでの僅かの間と思えばこそです! 二代目は、ウルスラ王女かクジュケ閣下にお決めください! その補佐ならば、身命を賭して務めます! でも、それよりも、どうか猊下ご自身がもっと長く」
抑えていた感情が爆発し、泣きながら大声で言い募っていたヨルムの声が、不意に途切れた。
振り乱していた髪も、針金細工のように固まっている。
サンサルスは「そんな、まさか」と呟きながら、周囲を見回した。
サイドテーブルに置かれた薬湯のカップから微かに立ち昇る湯気も、全く動かない。
耳がキーンとなるような静けさの中、コツ、コツと、杖をついて歩く足音が聞こえて来た。
足音は部屋の前で止まり、閉まったままの扉をスッとすり抜けて、枯れ木のように痩せた老人が現われた。
「久しぶりじゃな、サンサルス。ちょっと邪魔するぞ」
珍しくサンサルスが悲鳴のような声を上げた。
「サンジェルマヌスさま!」




