44 シャルム渓谷の戦い(2)
全体的に平坦な中原にあっても、その北部は、ベルギス大山脈に向かって緩く上がりながら傾斜している。
更に大山脈が遠望できるこの辺りまで来ると、恰も岸辺に打ち寄せる波のように、大山脈に平行な細長い丘陵が何本も連なっていた。
その丘陵と丘陵に挟まれるようにして、細い谷が平行して何本も走っている。
その中で最大のものがこのシャルム渓谷であった。
但し、かつて渓谷を穿っていた川はすでに枯れ、水無川となっている。
ガルマニア帝国軍がここを通ったのは、バロードまでの最短距離であることと、地下に水脈が残っているため、水の少ない緩衝地帯の中では比較的オアシスが多い場所だからであった。
その代わり、大軍を移動させると縦に長くなってしまい、守りが弱くなる。
しかし、ゴッツェ将軍はそのようなことは歯牙にもかけなかった。帝国軍の強さに、絶対の自信があったからだ。
実は、帝都ゲオグストを出発する際、軍師のブロシウスは渓谷を行軍することの危険性を指摘したのだが、ゴッツェ将軍は嘲笑った。
「おやおや。軍師は、ガルマニア兵の強さをご存じないようだな」
「そういう問題ではない。軍略の基本を申し上げておる」
外様であるブロシウスには、それ以上のことは言えず、結局、ゴッツェ将軍に押し切られたのである。
さて、東西に長いシャルム渓谷の途中には、両側の丘陵が途切れ、南北に通り抜けられる場所が一箇所だけある。
ここもかつては南北に流れる川であったらしいが、すでに水は流れていない。
普段なら旅人も通らないような、道とも言えないその道を、その時プシュケー教団が北上して来ていた。
ここを通らねば、丘陵地帯を大きく迂回しなければならないからだ。恐らく、今まで何度も往復し、特に何の問題もなかったのであろう。
正に、その出会い頭であった。
中原の不文律として、こういう場合には、交差する場所に先に進入している側に優先権があり、後から来た軍は待たなければならない。
この場合には、先にプシュケー教団が通っていた。当然、ガルマニア側が待つべきであったし、それ程の時間でもなかったであろう。
ところが、ゴッツェ将軍の攻撃命令により、ガルマニア帝国軍は弓隊を前面に移動させ、殆ど警告らしい警告もなく、一気に矢を放った。
まだ距離があるため殺傷が目的ではなく、脅しであろう。
これで逃げるならよし、逃げずに弓矢で応戦するなら数に物を言わせるぞ、という威嚇が籠められている。
が、相手の対応が尋常ではなかった。
雨霰と降り注ぐ矢をものともせず、長槍を構えた騎兵が次々に突進して来たのだ。
皆口々に「イーラ、プシュケー!」と叫んでいる。
弓隊はそもそも接近戦には向いていない。
二の矢を番える間もなく、串刺しにされる者が続出した。
「弓隊下がれー!」
上官たちが乱戦の中を駆け回り、弓隊を撤収すると共に、槍隊を前面に移動させた。
しかし、歩兵である槍隊には、相手ほどの機動性がなく、もたつく内に、またしても馬上から繰り出される長槍の餌食となった。
それだけではない。
この狭い渓谷の中では、大軍を擁するガルマニア側は横に展開できず、常に前線の兵だけで敵に対することになる。
猛攻に曝され、瞬く間に屠られていく。
一方、あれだけの矢の中を、殆ど鎧もなく駆け抜けて来たプシュケー教団の騎兵たちはどこかしら矢が刺さっており、中には片目を貫かれている者すらいた。
そのような状態でありながら、一向に士気は衰えず、「イーラ、プシュケー!」と自らを鼓舞しながら、血塗れの体で襲って来る。
そして、いよいよ絶命する瞬間に「プシュケーの御許に!」と叫ぶのである。
いかにガルマニア兵が勇猛と謂えど、生命が惜しくない訳がない。
前線が崩れ、一部の兵が逃走を始めた。
「こらーっ! 戻れーっ! それでもガルマニア兵かーっ!」
馬に乗った伝令兵たちがいくら叫んでも、一度恐怖心を抱いた兵士には響かない。
縦に細長くなった帝国軍の中央付近にいたゴッツェ将軍は、前方の状況を知らせてきた伝令に向かって、「馬鹿者!」と叫んだ。
「こちらは敵の五倍以上の兵力なのだぞ! 直ちに前線の兵を入れ替えよ! 二番手がやられたら、三番手を回せ! それを繰り返すのだ!」
「ははああーっ!」
ガルマニア軍は、最初の衝撃から徐々に退勢を回復すると、逆にじりじりと敵を押し返して行った。
それでも、信じられないことに、この時点でのガルマニア兵の戦死者はすでに千名を超えていた。
圧倒的な数の差がありながら、ここまでプシュケー教団が戦果を上げたのは、防御を一切考慮しない無鉄砲さもさることながら、狭い渓谷の地の利を生かしたこと、さらに人数の割に騎兵が多かったからである。
だが、その馬たちは、人間以上に手傷を負っていた。
一頭、また、一頭と倒れていき、プシュケー教団の機動力がみるみる無くなって行く。
「今だ! 一気に潰してしまえ!」
ゴッツェ将軍自ら檄を飛ばした。
奇跡的な健闘を見せていたプシュケー教団も、多勢に無勢、最早敗色濃厚となって来た。
「将軍閣下! これ以上の深追いはおやめください! われらの本来の敵はバロードです!」
副官に諫められても、ゴッツェはなかなか追撃中止を命じなかった。
一時的にせよ、自分の軍を脅かした相手を許せなかったのだろう。
「わかっておる。後顧の憂いを絶つまでだ。もう少し待て」
この判断の遅れによって、ガルマニア帝国軍は、完全に前後に伸び切った状態で進んでいた。
その時、不安に駆られて周囲の状況を見ていた副官が、丘陵を見上げて絶叫した。
「将軍! 丘の上に、バロード軍がいます!」
「何を寝言を……」
が、ゴッツェ将軍も気がついた。
両側の丘陵の上にはためくバロード共和国の旗と、横一列に並んだ騎兵部隊が、一気に丘を駆け下りて来るのを。




