43 シャルム渓谷の戦い(1)
凡その方向しかわからぬまま駆け出したゾイアであったが、やがて、前方に廃都ヤナンの輪郭が見えてきた。
ロックがまだヤナンに残っているのかわからないが、少なくとも近くには居るはずである。
ヤナンに近づくと、気配を殺し、身を隠しながら進んだ。当然、黒尽くめの女の仲間がいるだろうと予想したからである。
だが、出払っているのか、誰にも出会わない。
ゾイアは知らなかったが、カルボンの依頼を受け、ガイ族の者たちは中原各地の反ガルマニア勢力の説得に当たっていたのだ。
幸い、二頭の馬は逃げもせずに、繋いだ石柱のところにいた。軽く首筋を撫でてやり、「待っておれよ」と声をかけて、先に進む。
最初に刀子を投げられた辺りで、石塀の陰に倒れているロックを発見した。
ゾイアは駆け寄り、ぐったりしているロックを抱き起こした。
「おい、大丈夫か?」
パッと開いたロックの目が、一瞬だけ真っ赤に見えた気がしたが、驚いたゾイアがもう一度見直した時には、もう普通の目に戻っていた。
但し、焦点が定まっていない。
「おっさん、なのか?」
「ああ、そうだ。どうしたのだ、ロック?」
ロックはゆっくり頭を振った。
「わからねえ。いつ気を失ったのかも思い出せねえ」
「そうか。もしかしたら、何か薬を嗅がされたのかもしれぬ。われも痺れ薬を塗った刀子でやられた。そういうことを得意とする部族のようだ。このヤナンを仮の根拠地にしているらしい。長居は無用だ。早く立ち去ろう」
「しかし、水と食料はどうすんだ?」
ゾイアは珍しくニヤリと笑った。
「ここから少し失敬していくさ。われをバロード共和国に売り飛ばそうとした報いだ」
「バロード、共和国?」
「そうなのだ。ガルマニア帝国の占領下で形ばかりの自治領であったバロードは、カルボン卿の下で独立したらしい。面白くなって来たぞ」
「ふん。そんなの面白くもなんともねえよ。すぐにガルマニア帝国に鎮圧されるだけさ」
ロックらしい言い草に、ゾイアは少しホッとした。
「それはどうかな。おお、そういえば、ガルマニア帝国軍が謎の軍隊と戦っていると聞いた。相手は恐らく、われらがすれ違ったプシュケー教団だろう」
「へえ。おっさんが守りを考えてないとか言ってた連中だな」
「ああ。あまり犠牲者が出ねばよいが」
ゾイアは、あの時の使者の男を思い出しながら、東の空を見上げた。
カルボン卿が報告を受けた一万五千のガルマニア帝国軍を率いているのは、生粋のガルマニア人であるゴッツェ将軍であった。
燃えるような真っ赤な髪と、それと一繋がりのように顔を覆う赤髭の大男だ。
特別に造らせた鉄貼りの鎧が、弾け飛びそうなくらい胸板が分厚い。
その体重を支えるため、一際体格のいい馬に跨って進軍している。
しかし、豪傑のような風貌とは裏腹に、帝都ゲオグストを出発して以来ずっと、副官に愚痴を零していた。
「折角、薄ら禿のザギムが失脚したのに、後任がまた異民族のチャドスとは、どういうことだ!」
副官の若い男も赤毛のガルマニア人である。
「全く腹立たしい限りでございますな」
ゴッツェに追従するように、大きく頷いた。
完全に能力主義の人材登用をするゲール皇帝の方針により、たとえ文官の最高位である宰相であっても、他の民族出身者が採用されることが間々あるのだ。
抑々、ガルム大森林の狩猟民族であったガルマニア人には、ゴッツェ自身のように武将としての才能に秀でた者は多くとも、行政能力のある人材は極端に少ないのである。
元々それを面白くないと思っていたガルマニア人たちにとって、異民族出身の二大巨頭であるザギムとブロシウスの対決は願ってもない状況であった。
結果的に、負けたザギムとその一党が粛清されて、権力の空白が生じることになり、愈々自分たちの出番だと思った者も多かったであろう。
だが、宰相の地位は、またしても異民族出身の、チャドスという男が就いたのである。
「皇帝は何を考えておられるのか! 忠節を尽くすわれらを、何故蔑ろにされるのか!」
いい加減うんざりしながらも、副官が相槌を打とうとした時、前方から伝令らしき早馬が駆けて来た。
「申し上げます、申し上げます!」
副官はホッとした気持ちを見透かされぬよう、殊更大きな声で「何事か!」と叫んだ。
「はっ、われらの進軍する前方を、所属不明の軍が横切って行きます。如何致しましょう?」
副官が何か言う前に、ゴッツェの命が下った。
「そのようなもの、蹴散らしてしまえ!」
これが、ガルマニア帝国軍にとって、悪夢のような戦いの幕開けとなったのである。




