425 逆転(13)
中原と、辺境及び北方とを隔てるスカンポ河は、別名を『赤い河』とも『死の河』とも云う。
水底を埋め尽くす程、真っ赤な色をした人喰いザリガニが大量に棲息しているからである。
中原を潤す網の目のような細い河川と同様に、スカンポ河もベルギス大山脈の雪解け水が源流となっている。
但し、上流でかなり大きく北へ蛇行しており、水温が極めて低く、溶け込む栄養素も少ないため、謂わば、水が痩せている。
当然、そこに棲む生物も僅かで、たとえ多少魚などがいたとしても、すぐにガンクの餌食となってしまう。
従ってガンクは常に餓えており、運悪く河の中に入った動物は、骨までしゃぶり尽くされることになる。
蛮族の帝王カーンことカルス王が渡河させるまで、北方蛮族がスカンポ河に近づくことすら嫌がったのはこのためである。
中原側からしてみれば、そのお陰で蛮族の侵攻から免れていたということになるだろう。
それと、もう一つ。
北方の更に北から発生する瘴気の影響で、北方と辺境、また、そこに近い中原の西端部では、死んだ人間が腐死者として蘇る。
ンザビに噛まれた人間や動物はンザビ化してしまうのだが、何故かガンクは平気であり、逆にンザビを喰い尽くしてしまう。
つまり、スカンポ河は、ンザビからも中原を護っているともいえるのだ。
因みに、北長城の役割は、蛮族の侵攻を防ぐと共に、フラフラと北方を彷徨うンザビを辺境に入れないという意味もある。
一方、蛮族たちは、豊富に産出する石油を使い、ンザビを見つけ次第焼却していた。
いずれにせよ、今は無人となった北方では、ンザビ化した蛮族や北方警備軍の兵士たちしか残っておらず、いずれかれらが北長城を乗り越えて来るだろうとみて、辺境からの住民避難計画が進んでいるのだが、ンザビがスカンポ河を渡って来るなどということは、全くの想定外だった。
その想定外の現象が、今将に起きようとしていたのである。
河原で女族長のバドリヌを火炙りにしようとしていたガイ族たちも、本来住む地域こそ中原東南部であったが、今目にしている光景があり得ないものであることはよくわかっており、忽ち恐慌状態となった。
普段は穏やかなスカンポ河の水面がブクブクと泡立ち、兵士が被る兜が次々と水面から現れて来る。
その下から見えるのは、焼け焦げ、ドロドロに腐りかけた人間の顔であった。
「ああ、ンザビが。そんな、馬鹿な……」
動揺する仲間たちに、バドリヌの父親が大声で命じた。
「一先ず、全員、ここから、逃げよ!」
父親はバドリヌを振り返った。目に涙が溢れている。
「すまぬ。おまえを、助ける、訳には、いかぬ」
バドリヌの周りでは、枯れ草が燃え出している。
「気に、せずとも、良い。このまま、燃えれば、ンザビに、ならずに、済む」
バドリヌは、黒尽くめの布から覗いている目だけで、笑って見せた。
と、上の方から「だめだ!」と叫ぶ声が聞こえて来た。
驚いてバドリヌが上を見ると、魔道師のマントを羽織った銀髪の男が、両腕に子供を抱えている。
「あ、あれは、ハンゼ?」
草色の布に全身を包まれている方の子供は、確かにハンゼであった。
クジュケに抱えられたハンゼは、今にもその腕から飛び出しそうにしている。
クジュケはグッと腕に力を籠め、それを押さえているようだ。
「ハンゼ、危ないですよ! ちょっとお待ちなさい!」
「でも、母者が……」
すると、反対側にいるウルスの顔が上下し、瞳の色が限りなく灰色に近い薄いブルーとなった。
見かねてウルスラが交代したようだが、まだ少し不機嫌な声であった。
「クジュケ、わたしがやるわ。放してちょうだい」
クジュケはホッとしたように、「お願いします!」とそちらの手を離した。
ウルスラは空中を滑るように降りて行き、炎に囲まれたバドリヌの傍に寄り、縛っている縄を魔道を使って一瞬で解くと、手を差し出した。
「さあ、わたしの手を掴んで!」
「しかし、掟が」
「もう、面倒ね!」
ウルスラが強引にバドリヌの手を握ると、二人の身体は光の球体に包まれ、フッとその場から消えた。
しかし、長距離の跳躍ではなく、バドリヌが磔にされていた場所からホンの少し陸側に移動しただけであった。
ウルスラは、ややぶっきらぼうにバドリヌに告げた。
「ハンゼがとても心配してるから、安心させてあげて」
「すまぬ」
そこへ、ハンゼを抱えたクジュケが降りて来た。
地上に着いた途端、ハンゼはバドリヌに駆け寄った。
「母者!」
「おお、ハンゼ!」
二人が抱き合っているところへ、バドリヌの父親が戻って来た。
「今は、もう、罪は、問わぬ。それより、早う、逃げよ!」
父親の警告が何を意味するかは、ウルスラとクジュケにもすぐにわかった。
スカンポ河から、続々とンザビが上がって来ているのだ。
殆どは甲冑を身に纏った兵士であるが、蛮族らしい風体の者も混じっている。
皆一様にびしょ濡れであった。
しかも、その一番後ろには、水面の上をスタスタと歩いて来る人物の姿が見えた。
鍔広の帽子を被り、クジュケのものより裾の長いマントを羽織っている。
当然、この人物だけは、少しも濡れていない。
その姿を見たバドリヌが、悲鳴のような叫びを上げた。
「おまえは、タンリン!」




