37 遠い空の下で
それからは、ティルスにとって悪夢のような時間になった。
見かけと違い、ベゼルは動きが素早く、何しろ手数が多い。
殆ど息を吐く暇も与えずに打ち込んで来る。
しかも、一撃一撃が重い。
ティルスは防戦一方となった。
それだけではない。あわよくばティルスに傷を負わせようと遠慮なく攻めてくるベゼルと違い、新入りのティルスは相手に大きな怪我をさせる訳には行かなかった。
記憶のない身で、居場所まで失ってしまうことになる。
ベゼルは勝利を確信したのか、ティルスに止めを刺そうと、お得意の突きを入れて来た。
木剣に切り裂かれた空気が焦げそうな勢いだ。
「くたばれ、名無し!」
ベゼルの木剣が、ティルスの喉元に迫って来る。
と、ティルスは反撃を諦めたように、カランと木剣を捨てた。
フッと腰を沈め、伸びて来るベゼルの木剣を両手の掌で挟み込み、仰け反るように倒れながら、両足でドンとベゼルの胸を蹴った。
一瞬目標を見失って体勢が崩れたところを蹴り上げられ、突っ込んで来た勢いのまま、ベゼルの巨体が宙を舞った。
そのままクルリと回転し、背中から地面に落ちた。
「うげっ!」
下が柔らかい土でなかったら、大怪我となっていただろう。それでも、ベゼルは最早動けぬようで、呻き声を上げるばかりであった。
一方、倒したティルスは呆然と立ち上がり、自分が相手から奪った木剣を信じられないような顔で見ている。
ティルスが意図的にやったことではなく、謂わば、無意識に刷り込まれた体術であろう。
「それまで!」
立会人のドメスの手が上がった。
「名無し、ではないのう。ティルス、おまえの勝ちじゃ。それにしても、そのような技、どこで身に付けたのだ?」
ティルスは苦笑したが、ふと顔を上げ、目を細めて遥か空の彼方を見つめた。
その空の下、かつてのバロード自治領はバロード共和国と名を変え、着々と対ガルマニア帝国戦の準備を進めていた。
市庁舎から王宮に拠点を移したカルボン卿は、しかし、相変わらず山のような報告書の束を捲りながら、ブツブツと独りで喋り続けていた。
「全く、どうしてこんなに手紙が多いんだ」
削いだように頬がこけた陰気な顔を顰め、太い羽根ペンで次々に署名していく。
ガルマニア帝国の占領下で形だけの執政官をしていた時には、主に行政上の書類であったが、共和国の総裁となった今は、殆ど外交文書である。
そこへ、共和国の役人が入って来た。
「総裁閣下に申し上げます!」
「聞こえておる。もう少し小さな声でよい」
「はっ。シングート自治領より、こちらの傘下に入りたい旨の申し出がございました。如何されますか?」
カルボンは渋い顔になった。
「大した戦力にはならんな。まあ、よい。枯れ木も何とやらだ。申し出を受けると伝えよ」
「はっ! 畏まりました!」
カルボンは不快そうに「声が大きい」と呟くと、手の甲で追い払うような仕草をして、再び文書に目を落とした。
が、すぐに顔を上げた。
カルボンは部屋の隅に向かって、「おまえか?」と尋ねた。
すると、全身黒尽くめで、顔すら黒い布で覆った人物がカルボンの眼前に現れ、片膝をついた。暗殺部族ガイの女であった。
「人払い」
「阿呆、誰もおらんわ。何事だ?」
「仲間、集めて、諸国、回った。あまり、いい返事、ない」
「ふん。わかっておるさ。積極的に協力を申し出て来るのは弱小な国や自治領ばかりだ。あとは日和見を決め込んでおる。だから、初戦が大事なのだ。一度われらが勝利を収めれば、雪崩を打って味方に付くさ。それより、ウルスの消息は掴めたのか?」
「王子、まだ、わからない。でも、別の噂、聞いた」
「噂?」
「王子探してる、男、いる」
「新バロード王国の残党か?」
「違う。クルム城から、逃げた囚人。今、コソ泥と、一緒。その男、怪我すると、獣になる」
カルボンは首を傾げた。
「何だかよくわからんな。だが、まあ、ウルスの関係者なら、捕まえる価値はあるかもしれん。手配しろ」
「御意」
ガイ族の女が消えると、カルボンはそんな男のことなどすぐに忘れてしまった。
しかし、怪我をすると獣になる男、即ちゾイアは、バロード共和国の周辺に近づきつつあった。




