353 避難計画
北方の空に浮かぶタンリンの巨大な顔が消えた翌朝、ニノフの発案で定期運航されている渡し船に乗って、マリシ将軍の娘マーサ姫は辺境から中原へとスカンポ河を渡った。
比較的大きな船で、一緒に龍馬も乗せていたので、スカンポ河東岸の湊町に下船するや否や、マーサは騎乗してまっしぐらに駆け出した。
ウルスの手紙を届けた特別便の龍馬が、距離的には遥かに遠いサイカから同じ朝に出発したにも拘らず、先に暁の女神に着いていたのは、思いの外渡河に時間が掛かったからである。
そのためマーサは焦っており、案内も乞わずに会議室の扉を開け放ったのであった。
これには、同じ北方警備軍出身のペテオが慌てた。
「姫御前! ここはニノフ殿下の砦ですぜ。いくら何でもお行儀が」
だが、当のニノフが笑って「よいのです。火急のご用とか。どうぞ中へ入ってください」と勧めた。
マーサが兜を脱ぐと、纏められていた見事な金髪がバサッと拡がった。
エメラルドグリーンの瞳で自分を窘めたペテオをジロリと睨むと、ニノフには笑顔を向け、型どおりの臣下の礼をした。
「ニノフ殿下、重ねてご無礼をお詫び申し上げまする。不肖ながら、辺境伯アーロン閣下の名代として参りました。会議中とは存じますが、お話させていただいてもよろしいでしょうか?」
「勿論です。どうぞお掛けになってください」
「失礼いたします」
会議室のテーブルは然程大きなものではないため、ペテオが気を利かせて自分の横の椅子を引いたが、そちらには目もくれず、マーサはケロニウスの横に座った。
その際、更にその横にいるタロスの顔を見て少し驚いた顔をしたが、噂では聞いているらしく、敢えて触れずに会釈だけ交わした。
マーサは大きく息を吸い、そこが会議室ではなく戦場であるかのような大きな声を出した。
「辺境に、北方からの脅威が迫っております!」
また何か言おうとするペテオを無視し、同じ声量のまま、マーサは日中から見える極光のこと、そして、空に浮かんだ巨大な顔のことを説明した。
「多少マオール語のわかる父が申すには、その顔は何らかの警告を発しているとのこと。で、あるならば、その名を口にすることも憚られるもののことに相違ありますまい。よって、アーロン閣下は、不本意ながら辺境伯領を放棄し、全領民を中原に移住させる他ないと、ご決断なされました。お受入れの程、何卒よろしくお願い申し上げまする!」
マーサは椅子から立ち上がり、深く一礼した。
ニノフは「勿論そのつもりです」と答えながらも、少し迷っているような顔になった。
「実は、たった今、別の方からも、辺境に危機が迫っているため早急に人々を避難させるようにとの助言を受け取りました。但し、こちらも事態が緊迫しております。バロードが西側国境に大軍を集めており、しかも、父が『荒野の兄弟』に陥穽を仕掛けてきて、間もなく戦端が開かれようとしています。とても、安全な避難場所とは言えません」
そこまで情勢が悪化していると知らなかったらしいマーサは衝撃を受け、唇を噛んで着席した。
重苦しい沈黙を破ったのは、タロスであった。
「二手に分けるしかないでしょうね」
マーサがパッと顔を上げて問い掛けるような表情をしたため、タロスは改めて名乗った。
「ご挨拶が遅れました。わたしはウルス王子付きの従者でタロスと申します。今は縁あって、ニノフ殿下のお手伝いをさせていただいております。さて、今のお話ですが、幸いスカンポ河は長い河です。東岸の湊町も何箇所もございます。辺境伯領も北端に近いクルム城から、随分南の方まで広がっておりますよね。そこで、兵士はエオスに近い北の方から渡河してわたしたちと共に戦っていただき、一般の住民は南へ回ってもらってはどうでしょうか? そこから、一旦サイカなどの自由都市に受け入れていただき、こちらの状況が安全になったら、合流してもらうのです」
マーサもホッとした顔で、「おお、それなら好いでしょう」と喜んだ。
ニノフも「サイカなどへは、おれから頼みましょう」と微笑んだ。
ペテオも自分の手柄のようにニヤニヤしていたが、またマーサに一瞥されて、笑顔を引っ込めた。
その間考え込んでいたケロニウスが、「よろしいかな?」と発言を求めた。
ニノフが「どうぞ」と促す。
「わしも、今のタロスどのの案に賛成です。尤も、混乱や恐慌を来たさずに住民を誘導するのは、なかなかの難事でありましょう。その役目、わしが引き受けたいと思いますが、如何かな?」
「おお、それは是非お願いいたします」
ニノフが頼むと、マーサも頷いて立ち上がった。
「では、わらわが乗って来た龍馬をお使いください。少しでも早い方がいいでしょう」
実際には、普通の馬でもよかったのであろうが、ケロニウスは一応礼を述べた。
「それは有難い。しかし、姫はどうされる?」
マーサはキッパリと答えた。
「わらわは、このままここに残り、戦の準備をお手伝いいたしまする!」
ペテオは顔を見られないよう俯いて苦笑した。




