352 阿吽
商人の都サイカでは、主な市民が文字どおり商人であるため利害関係が複雑で、また、自由を貴ぶ気風も強いため、普通の自由都市のような統治機構が発達しなかった。
それでも最低限、防犯と自衛のための組織は必要であり、自警団という名前で存在している。
その長に当たる立場にいるのがライナであった。
従って、ライナの正式な呼称は団長であるはずだが、誰もそう呼ぶ者はいない。
キリリとした美貌にそぐわないということもあるし、本人が非常に嫌がるからでもある。
市民たちは大抵名前で呼ぶが、男衆と呼ばれる部下たちは、親しみを込めて『姐御』と言うことが多い。
「姐御、もう休んでください」
そう言われて初めて、ライナは自分の足元がふらついたことに気づき、ハッとした顔になった。
が、すぐに言い返した。
「ふん。言われなくたって、もう寝るつもりだったのさ」
包囲戦の間は忙しくとも気が張っていたが、戦後の復興が長引き、また、それを手伝ってくれていた仲間たちが各自の事情で出払ってしまったため、ライナの疲労は限界に来ていたのである。
取り敢えず少しは眠ろうと自分の寝室に向かう途中、夕方微熱があったウルスが気になって部屋を覗いた。
「坊や、大丈夫かい?」
扉の隙間からランプの明かりが漏れていたため起きているとは思ったが、寝台に腰掛けている相手の目を見て、少し驚いた。
「おや、お姉ちゃんの方だね。何かあったのかい?」
ライナの意識の中では、ウルスラが表面人格の時は、何か普通と違う事が起きたという印のようになっているらしい。
それがわかったのか、ウルスラは苦笑した。
「何でもありませんわ。ちょっと弟と話していただけです」
「へえ、そうなのかい。会話するのに一々交替するなんて、あんたらも大変だねえ」
「勿論、心の中だけでも会話できなくはないんですけど、どっちが喋っているのか、時々自分たちでも混乱してしまうので、こうして入れ替わるんです」
ウルスラがコクンと顔を上下させると、瞳の色がコバルトブルーに変わった。
「ぼくらにとっては、片目を瞑るのと同じくらい簡単なんですよ」
ライナは笑ってしまった。
「成程ねえ。わたしなんざ、お客さんと会う時だって化粧するのも面倒で、スッピンのまんまだけどねえ。ああ、そうそう、熱は下がったのかい?」
「ええ。ちょっと疲れてたんだと思います。ニノフ兄さまの手紙への返事も書けましたし、今日は早めに寝て、明日はライナさんのお仕事をぼくが手伝いますよ」
ライナは笑顔のまま、少し目を潤ませた。
「まあ、嬉しいことを言ってくれるねえ。じゃあ、明日を楽しみに、わたしも早寝するよ。あら、これは?」
ライナは、ウルスが腰掛けている寝台の横にある丸椅子の上から、何かを摘まみ上げた。
「白髪みたいだね。誰か部屋に来たのかい?」
「いいえ、誰も」
ウルスも不思議そうな顔をしている。
ライナは自嘲するように「わたしのじゃないことを祈るよ」と笑って出て行った。
翌朝ウルスが出した手紙は、特別便として龍馬でその日のうちに、暁の女神のニノフの許へ届けられた。
ちょうど『荒野の兄弟』のルキッフから開戦が避けられそうにないとの連絡があって、ニノフはケロニウス、ペテオ、タロスの三人を呼んで、最近作った会議室で対応を話し合っているところだった。
ニノフはその場で手紙を開いて一読し、「ほう」と呟いて、皆に説明した。
「サイカのウルス王子から返事が来ました。ゾイア将軍がエイサから戻られたそうですが、このまま向こうに残り、義勇軍を募って側面から援護されるそうです。よって、エオスの方はタロスどのに任せ、活躍に期待している、とのことです」
タロスは少し面映ゆそうに「わたしなど、とてもゾイア将軍に及びませんが」と謙遜した。
すると、ペテオがニヤリと笑い、「そんなことねえよ」と手を振った。
「ここ何日か練兵の様子を見てたが、どうしてどうして、ゾイアの大将に引けは取らないぜ」
ニノフも頷き、「おれもそう思います」と微笑んだ。
その時、ニノフの横に座っていたケロニウスが、「ちょっと手紙を拝見」と頼んだ。
「どうぞ、老師。何かございますか?」
ニノフから手紙を受け取ると、ケロニウスは本文のずっと下の方を見ている。
「横から、すみませぬ。チラリと妙な文字が見えましたので。ほれ、ここです」
覗き込んだニノフも、首を傾げた。
「何でしょう? 異国の言葉のようですね」
「ああ、いや、これは中原の文字です。手鏡をお借りできましょうか?」
ニノフの代わりにペテオが席を立ち、小さな手鏡を持ってきた。
「これでいいですかね?」
「おお、ありがとう。うむ。やはり、そうじゃ」
鏡に反転して映った文字は、次のように読めた。
【北方の危機は一時停止した。だが、辺境は早急に放棄した方がよい。住民の受け入れを始めよ。サンジェ】
最初に反応したのは、意外にもタロスであった。
「おお、これは! ウルスラさまからお聞きしたことのある、かの大魔道師サンジェルマヌス伯爵がお書きになったのではないでしょうか?」
ケロニウスが「わしもそう思う」と答えたところへ、大きな足音と共に会議室の扉が大きく開かれた。
「火急の使者にて、無礼の段はご容赦くださいませ!」
そこには、真っ赤な甲冑に身を包んだマーサ姫が立っていた。




