346 凶兆(1)
別名を『豊穣神の箱庭』とも云う肥沃な穀倉地帯である中原の西端は、スカンポ河である。
河を越えると途端に土地は痩せ、乾燥した気候と相俟って、中原よりも広い不毛な大地が西の果てまで続いている。
これが、辺境である。
苛酷な環境ながら、人々は太古から細々と畑を耕し、或いは家畜を放牧して、中原の十分の一程度の人口を養っている。
中でも中原に近い辺境伯領は、クルム城を中心に、それなりに繁栄を遂げていた。
古代バロード聖王国によって制定された辺境伯の役割は、辺境北方に住む蛮族の侵攻を防ぐために造られた北長城の後方支援である。
その北長城が、腐死者によって陥落し、炎上したことによって、全てが変わってしまった。
今やクルム城だけが、北方からの脅威に対する、最後の砦となったのである。
そのクルム城の人々が、かつてない異変に怯えていた。
日没前に極光が見えるようになり、更に暗い空を覆うように、異様なものが浮かんだのである。
それは、鍔広の帽子を被った、目つきの鋭いマオール人の巨大な顔であった。
「あんなものは、幻影だ!」
苛立たしげにそう叫んだのは、現在の辺境伯、アーロンであった。
「わらわもそう思いまする」
応えたのは、マーサ姫である。
長い金髪を一纏めに括り、既に真っ赤な鎧を身に着けている。
北の空の巨大な顔を発見し、すぐにアーロンの部屋に報告に来たところであった。
「一種の魔道であろうとは存じまするが、問題は領民の動揺でございます。それでなくとも、北長城が廃城となり、北方のンザビ化した蛮族たちがいつ襲って来るのかと、皆怖れているのですから」
生真面目なアーロンは、若く気品のある顔に苦悩を滲ませた。
「やはり領民を全て引き連れて、渡河するしかないのか」
その時、部屋の外から、「お待ちくだされ」という声がした。
言われたアーロンより、横にいたマーサの方が先に「父上!」と叫んで駆け寄った。
「まだご無理をされてはなりませぬ!」
豪傑めいた髭面に白いものが増え、頬も痩けたマリシは、自室からここまで歩いて来ただけで、肩で息をしていた。
片手で壁に掴まっているが、もう片方の腕には肘から先がない。
ンザビに噛まれたため、自ら斬り落としたのである。
マリシは娘に支えられて室内に入ると、アーロンの許しを得て椅子に掛けた。
座るとすぐ、自嘲するような笑顔で、アーロンに詫びた。
「このような為体にて、面目もござらん」
「とんでもない。姫も申されたように、まだ無理は禁物だ。呼んでくだされば、わたしの方から伺ったものを」
形の上では主従でも、独立性の高い北方警備軍の将軍で、父と同世代のマリシに対して、アーロンは私淑しているところがあった。
「畏れ多いことでございまする。わしなんぞのことより、空の異変のことを話しましょうぞ」
「そうであったな。あれが幻影であることは間違いないと思うが、いったい誰であろう?」
「わしも実物を見たことはござらぬが、あの風体は、恐らくマオールの東方魔道師でありましょう」
「おお、やはりそうか。だが、そうだとすると、益々わからん。何故マオールが北方と関わる?」
「国家として、ではありますまい。北方とマオールでは遠すぎまする。如何にマオールが貪欲でも、先ずはガルマニアを手に入れることに全力を尽くすはず。最早人も住めぬ北方にちょっかいを掛けるような暇はないでしょう」
「で、あれば、もしかして、バロードの魔王が裏で仕掛けているのか?」
自分では聖王と名乗っているカルスをアーロンは魔王と断じたが、勿論、マリシも娘のマーサもそれに異を唱えなかった。
「可能性はあるでしょうな。魔王本人か、或いは、その母の魔女か。しかし、それも違う気がしますな」
「ほう。何か理由がありそうだな。教えてくれぬか?」
真面に聞き返され、マリシは少し照れたように笑った。
「理由、という程ではありませぬが、老師の話を思い出したのです。最初にオーロラが見えた時、『凶兆』と申されたとか。つまり、良からぬことが起きる前触れ、ということです」
「成程。その良からぬことが、これだと」
アーロンがそこまで言ったところに、部下が駆け込んで来た。
「畏れ入りまする! 空に浮かんだ大きな顔が、何か喋っております!」
その少し前。
空に浮かぶ巨大な顔の仕掛け人ではないかとアーロンたちに名指された二人も、異変に気づくこととなった。
正式な使者が殺されたと難癖をつけ、愈々『荒野の兄弟』と断交し、開戦の通告を認めているカルス王の執務室に、ポッと光る点が現れた。
「おや?」
訝るカルスの前で、光る点は急激に大きな球体となり、天井に届くかと思える程膨らんだところでパチンと弾け、中から銀髪の美熟女が出現した。
カルスは相手を見て、少し驚きながらも笑顔になった。
「おふくろどの! 直接跳躍して来られるとはお珍しい。如何されました?」
だが、ドーラの顔は蒼褪めていた。
「どこかの阿呆が、禁区に入りおったようじゃ」
それが自分の蒔いた種であるとは、ドーラもまだ知らない。
ゾーンと聞いたカルスも笑顔が消え、顔色が変わっていた。
「えっ、それでは」
「ああ、五百年ぶりに穴から出て来るぞ、あやつらが」




