340 北の森から
昼猶暗い森の中。
疎らに生えた下草の上に、男が一人、俯せに倒れている。
骨まで凍るような寒さに、ブルッと大きく震えながら、男は目を醒ました。
「こ、ここは、どこだ?」
地面から起き上がり、周囲を見回した男は、長身で目つきが鋭い。
頭髪は黒く直毛で、頬骨も高く、典型的なマオール人の顔をしている。
東方魔道師のタンリンであった。
ボンヤリと周囲を見回していたが、ふと自分の頭に手をやって、「あっ、帽子が!」と叫んだ。
慌てて探すと、二三歩先の地面に落ちている。
立ち上がって駆け寄ろうとしたところで、ブワッと横風が吹き付けて帽子を舞い上げた。
「ああっ、いかん!」
すぐに追いかけたが、飛んで行くその帽子を、森の樹の陰にいた何者かの手が、パッと掴んだ。
「おお、すまん。それはおれのものだ。返してくれ」
反射的に礼を述べながらも、タンリンは帽子を掴んでいる手の異常さに気づいた。
指先まで刺青で覆われているのだが、その皮膚が所々剥がれ、中の赤黒い筋肉や、黄色く変色した骨が見えている。
「き、きさまは……」
帽子を掴んだ相手は樹の陰を回り、立ち止まって凝視するタンリンの前に、全身を現した。
刺青だらけの身体はボロボロに腐蝕し、襤褸布のようになった衣服が辛うじて纏わりついている。
「腐死者か!」
タンリンの声に反応して、ンザビはクワッと口を開いた。
半分近く歯が抜け落ちているが、中に覗く真っ赤な舌だけが生々しく蠢いている。
ンザビは帽子を持ったまま、ヨロヨロとタンリンの方に近づいて来た。
「ふん。おれを狙ってやがるのか。これでも喰らいやがれっ!」
タンリンは懐から刀子を出し、ンザビの口を目掛けて投げつけた。
サクッと軽い音がして、刀子はンザビの口を貫き、後頭部も通り過ぎ、向こう側の樹にカツンと突き刺さった。
が、ンザビは何事もなかったように、そのまま前に歩いて来ている。
「くそっ! ならば、こうだ!」
タンリンは、逆にンザビに向かって駆け出し、ぶつかる寸前に跳躍して、顎を蹴り上げた。
腐敗が進行して軽くなっているンザビは、枯れ木のように向こうの樹まで吹き飛ばされ、激突してバラバラになった。
勿論、反動を利用して地面に降り立つ前に、タンリンは自分の帽子は奪い取っている。
嫌そうにンザビの皮膚の欠片を払い落として帽子を被っていると、周囲から枯葉を踏む足音が聞こえてきた。
それも一つや二つではない。
「ちっ、大勢来るようだな。だが、おまえらの相手をしてる程、おれは暇じゃねえんだ」
タンリンはスーッと垂直に上昇した。
下を見ると、樹々の間を縫って、夥しい数のンザビが、今までタンリンの居た場所に集まって来ている。
「へっ。共喰いでもしやがれ」
タンリンが目を遠くに転じると、キラキラと光るものが見えた。
「ほう。あれは結晶の森というものだな。と、いうことは、ここは北方か」
中原の東の端にあるゲオグストから、西の外れまで飛ばされたことになる。
結晶の森の反対側に目を向けると、白い地平線の上に、ゆらゆらとはためく緑色の光の幕のようなものがあった。
「おお、極光だ!」
それがオーロラと呼ばれる現象であることはタンリンも知っていたが、夕暮れ時とはいえ、日没前にこれほどハッキリ見えることの異常さまでは知らない。
憧れるようにその光を眺めていたタンリンは、ニヤリと笑って頷いた。
「あの魔女のせいとはいえ、せっかく北方まで来たんだ。このまま帰るのも芸がないな。あのオーロラの近くまで行ってみるか」
タンリンは、丈の長いマントを翻し、更に北へ向かって飛んで行った。
タンリンを強制的に転送したドーラ本人すらその行方を知らなかったが、それに気づいた集団がいた。
「おい! 誰かが禁止領域に入り込んだぞ! 第三十四次予測は、まだ出ないのか?」
そう尋ねたのは、髪の毛も眉もない赤い目の男である。
神官が着るようなゆったりした長衣を身に纏っている。
「申し訳ございません、第一発言者。例の有翼獣神が、また不確定さを増しておりまして」
そう答えた相手も最初の男と変わらず、髪も体毛もなく、目が赤い。
ここは、エイサの直下にある古代神殿の一角であった。
そこに数名の赤目族が集まっているのだが、誰も際立った特徴がなく、ただ、第一発言者と呼ばれる男だけが薄い板のようなものを手にしている。
それを見ながら、再び発言した。
「ケルビムについては、われわれにもわからぬ点が多い。われわれの先人が、『ケルビム』という言葉に反応して命令に従うことを偶然に発見して以来、殆ど何の進捗もないと言ってもいい。しかし、不確定要素としては大きなものではない。禁止領域の奥にいる、非位相者に比べればな」
「その、禁止領域に入ったという者は、ストレンジャーに接触するでしょうか?」
「そうならぬことを、祈るしかない」
第一発言者が目を瞑ると、他の赤目族たちもそれに倣った。
タンリンが転送された北方と、赤目族が潜むエイサとの中間にある暁の女神の砦には、二通の書状がほぼ同時に着いた。
一通は、暫くクジュケを貸して欲しいというゲルヌ皇子の依頼状。
そして、もう一通は、バロードと開戦せざるを得ない状況に追い込まれたという『荒野の兄弟』のルキッフからの報告である。
ニノフから相談したいと執務室に呼ばれた老師ケロニウスは、二通をじっくり読んでから、逆にニノフに問うた。
「如何されますか、殿下?」
ニノフは、天井を向いて「うーん」と考えていたが、フッと息を吐いて答えた。
「クジュケのことは、致し方ありません。ゲルヌ皇子の切迫した状況もわかりますから。しかし、バロードとの開戦は、できればもう少し先に延ばしたかった、というのが本音です」
「やはり、まだゾイア将軍が戻っておりませんからな」
ニノフは諦めたように首を振り、少し微笑んで見せた。
「ワルテール平原でも、ゾイア将軍は後から来てくれました。会戦には間に合いませんでしたが、側面から援護していただき、勝利に繋がりました。今度も、必ず助けてくれると思いますよ」
だが、そのゾイアは、まだサイカにも着いていなかった。




