32 叛旗
宰相のザギムが皇帝自らの手によって処刑された日、バロード自治領の首都バロンでは、いつもと変わらぬ日常が続いているように見えた。
市庁舎にある執政官室では、カルボン卿が山のような報告書の束を捲りながら、ブツブツと独りで喋り続けていた。
「全く、どうしてこんなに書類が多いんだ」
削いだように頬がこけた陰気な顔を顰め、太い羽根ペンで次々に署名していく。
その手が急に止まった。
カルボンは部屋の隅に向かって、少し震えた声で「おまえか?」と尋ねた。
すると、全身黒尽くめで、顔すら黒い布で覆った人物がカルボンの眼前に現れ、片膝をついた。
秘密裏にザギムとカルボンが連絡を取り合うために使っている、暗殺部族ガイの女であった。
「人払い」
「心配いらん。書類の整理がつくまで誰も近づくなと言ってある。いかがした?」
「ザギム、殺された」
「何っ!」
カルボンの顔が驚愕に引き歪んだ。
「だ、誰に殺された?」
「皇帝、刺した。ガルマニア、今、大騒ぎ。仲間たち、粛清、始まった」
カルボンは蒼白になった顔で天を仰いだ。
「わが事、終わんぬ、か」
だが、女の次の言葉が、放心したカルボンを現実に引き戻した。
「預かりもの、ある」
「何だと?」
「これ」
女は懐から細長い革袋を取り出し、カルボンに渡した。
「まさか、これは」
袋の紐を解き、中身を検めた。
黄金と宝石で見事に装飾された短剣が入っている。
袋から半分だけ出したところで、カルボンは魅入られたように見つめていた。
だが、長い息を吐くとそのまま袋に戻し、カルボンは引き攣ったような笑みを浮かべた。
「これがあったとて、今更どうなるものでもないわ」
持て余したように革袋を机に置こうとしたが、頭を振り、「いや、一縷の望みはあるか」と呟いた。
無理に笑顔を作り、ガイ族の女に声を掛けた。
「よくぞ無事に運んでくれた。改めて礼を言う。ところで、ザギムさま亡き後、このままわしに仕える気はないか?」
「ある」
「よし。今からわしが手紙を書く。反ガルマニア諸国への檄文だ。それが出来次第、各国へ届けて欲しいのだ。無論、おまえ一人では手が足りぬであろう。ガイ族の中で、おまえが心置ける仲間を募ってくれ。褒美は望みのまま出そう。できるか?」
「できる。少し、時間、くれ」
「良かろう。わしの方も色々やることがある。行け」
黒尽くめの女が出て行くと、カルボンは腹心の部下たちを市庁舎の大広間に集めた。
急な呼び出しに不安がる部下たちを見回すと、カルボンは意を決して宣言した。
「これより、ガルマニア帝国に叛旗を翻す!」
動揺する部下たちに、革袋から短剣を出して見せた。
「これぞアルゴドラスの聖剣である。中原は、われらのものだ!」
部下たちは一斉に「おおっ!」と歓声を上げた。
その反応を見て、カルボンは満足げに頷き、演説を続けた。
「わしは予てよりガルマニア帝国の宰相ザギムを籠絡し、首都バロンの旧王宮に詰める駐留軍の人数を徐々に減らさせておった」
嘘である。
謀反の下準備として、ザギムがそのように手配した。カルボンは、傍観していただけだ。
が、死人に口なし、であった。
「よって、今は僅かに千人隊を残すのみ。当方の兵は今でも一万を超える。いかに王宮が堅牢でも、千人では守り切れぬ。むしろ、包囲した後は投降を促すだけにして当方の兵力を温存し、やがて来たるであろうガルマニアの援軍に備えるつもりだ。一方、周辺の反ガルマニア諸国を糾合し、われらが盟主となって同盟を作り、ガルマニア包囲網を形成する。さすれば、じきに帝国は滅び、ガルマニア人はガルム大森林へ逃げ帰って、元の狩猟民族に逆戻りじゃ。さあ、時は至れり、者ども、奮えっ!」
大広間が揺れるほどの雄叫びが上がった。
その頃、緩衝地帯を進むゾイアたちは、バロード自治領の近くに差し掛かっていた。
昼間寝て、夜に進むというやり方にしてから、賞金稼ぎに狙われることはなくなったが、ロックはげっそり窶れてしまった。
そろそろ日が暮れるため、仮眠していた岩陰から這い出すと、早速、ロックが愚痴を零した。
「おっさんは、よく真っ昼間から眠れるな」
「目を瞑れば、同じことだろう」
「同じじゃねえよ」
「まあ、多少は明るいか」
笑いながら話していたゾイアが、急に表情を引き締めた。
「待て! 様子がおかしい」
「な、何だよ?」
ゾイアは姿勢を低くしたまま、目を細めて遠くを見た。
「兵のようだ。随分大勢いる。恐らく連隊(=三千人隊)だ。しかし、どこの国の軍だろう」
「逃げよう!」
「いや、今急に動けば、却って目立つ。まだ距離はあるから、やり過ごそう」
その時、鬨の声が上がり、連隊らしき軍が動き出した。
「おっさん、やべえよ! こっちに来るぜ!」




