321 飛び火
ガルマニア帝国の先帝ゲールの遺児であるゲルヌが、まだ名目だけとは云え神聖ガルマニア帝国なるものを建国し、母国奪還を宣言したとの噂は、忽ち中原中を駆け巡った。
勿論、一番衝撃を受けたのは現皇帝であるゲルカッツェである。
ゲルカッツェは、美女軍団を侍らせるようになってから余計に運動不足になり、その上、最近は砂糖菓子を食べるだけでなく、それを肴に甘い混合酒を嗜むようになって、益々太ってしまっていた。
因みに、混合酒を勧めたのは、ドーラが変身した美女ドランである。
肉に埋もれてしまったような首を子供のように振って、ゲルカッツェはゲルヌのやろうとしていることを否定した。
「だって、ぼくが皇帝だよ! ゲルヌはぼくの命令を聞かなきゃ駄目じゃないか!」
「陛下の仰るとおりでございます」
そう答えたのは、宰相のチャドスである。
部屋には他に誰もいない。
話の内容が内容なだけに、ドランも含めて美女軍団は人払いされていた。
一時はゲルカッツェを廃してゲルヌに乗り換えようかと画策していたチャドスも、遠縁のチャダイ将軍の事件があってからは、忠実な臣下を演じている。
その事件とは、ドーラによって殺されて操り人形となったチャダイ将軍が、皇帝宮の真ん中でゲルカッツェを大声で非難し、皇帝をゲルヌに替えるよう要求したことであった。
ゲルカッツェの方も、内心では疑わしいと思っているのだろうが、面倒な政治的な事は全てチャドスに任せ切っているため、あれ以来、ゲルヌのことは敢えて触れようとはしなかった。
そこへ、今回のゲルヌの宣言の噂が聞こえてきたのである。
徒でさえ評判の悪いゲルカッツェにとって、偉大な父の再来といわれる才気溢れる弟の存在は、自分の身を危うくする。
居ても立ってもいられないというのが、本音であろう。
チャドスも、それは充分わかっている。
狡そうな笑みを浮かべて提案した。
「皇帝陛下の弟君とは申せ、今は、ゲルヌさまは一臣下に過ぎません。で、あれば、これは正に謀叛の宣言。到底見逃すことはできませぬ。直ちに討伐軍を送るべきです」
「ぼくは、行かないよ」
子供のような返答をされるのは織り込み済みであったらしく、チャドスは特に驚きもせずに話を続けた。
「おお、勿論陛下の手を煩わせるつもりはございません。かの赤髭将軍、ツァラトが適任かと存じます」
その後、チャドスは皇帝宮東端の塔にある執務室に戻り、お気に入りの安楽椅子にドカリと座った。
その時機を見計らっていたように、開け放たれた窓から、スルリと黒い人影が入って来た。
「入ってよいとは、言っておらぬぞ」
不機嫌そのものの声でそう言われても、相手は全く動じず、平気な顔で「ご報告がございます」と告げた。
部下から奪った鍔広の帽子を被ったタンリンである。
「失敗の報告など、聞きたくもないわ」
「想定外のことが色々ございまして」
チャドスの顔が、怒りで赤くなった。
「言い訳するな! 今からでも遅くないぞ! すぐにゲルヌを亡き者にせよ!」
タンリンは畏れる風もなく、チャドスに尋ねた。
「ツァラト将軍を派遣すると聞きましたが?」
チャドスは嫌な目つきでタンリンの顔を睨んだ。
「こやつ、盗み聞きしておったのか。ふん、あれはゲルカッツェを安心させるためよ。あの赤髭を信頼しておるようだからな。だが、赤髭とてゲルヌに逢えば、木乃伊取りが木乃伊になりかねん。暗殺できれば、その方が手っ取り早い」
だが、タンリンは肩を竦めた。
「ご報告したいのは、そのことでございます」
「何がだ?」
「一旦飛び去った後、エイサの様子を見ようと密かに戻ろうとしたのですが、できませんでした」
チャドスも怒りを忘れ、タンリンの話を聞く態勢になった。
「どういう意味だ?」
「エイサの周辺に、かつて見たことのないような強力な結界が張られており、中に入れないのです」
ゲルヌの宣言は、中原のもう一方の雄、バロードにも伝わった。
聖王カルスが、蛮族の部下からその報告を聞いているところへ、灰色のコウモリが飛来した。
「おお、これはおふくろどの。お久しぶりにございます。太った若君のお相手は、もう飽きましたか?」
ノスフェルは、その場でクルリと宙返りすると、銀髪の美熟女ドーラの姿となった。
嫣然と微笑んで、軽く首を振る。
「いやいや、中々楽しいぞえ。今はドランの幻影だけ残してきたがの。そんなことより、好機到来じゃ」
「ほう。こちらからエイサを攻めてみますか?」
「違う。逆ぞ」
「逆?」
「そうじゃ。今こそ、ニノフを攻めるのさ」
「ニノフを……」
複雑な表情を浮かべるカルスに、ドーラは笑顔で怖ろしいことを告げた。
「中原中の耳目がエイサに集まっている今なら、西の果てで少々強引なことをしても目立たぬ。たとえ、誰かが死んでも、のう?」
その時、秘書官が来客を知らせてきたため、カルスはホッと息を吐いた。
最近では珍しく、蛮族ではなく、バロード人の秘書官である。
「畏れ入ります。聖王陛下の昔馴染みだという男が参っておりまして、どうしてもお会いしたいと申しております」
「昔馴染み? 何という名だ?」
「はい。『暁の軍団』の団長、バポロと名乗っております」




