306 地下迷宮(2)
鉄格子の外に出され、グルグルと唸りながら暗闇の中で目を光らせる大蜥蜴たちと対峙してながらも、ゲルヌ皇子は落ち着いていた。
「後ろ手に縛らなかったのが、きゃつらの落ち度だ。暗いが、まあ、何とか手探りでわかるだろう」
闇の中で辛うじて輪郭だけ見えているゲルヌの身体が動いた。
縛られたままの両手を内側に捻り、懐から何か取り出したようである。
「ふむ。ガラス製の薬瓶だから割ってもよいのだろうが、それだと一回こっきりだ。確かコルクの栓があったはず。おお、これだな」
ポンとコルクを抜く音がした。
そうしている間にも近づいて来ていた光る目の動きが、その瞬間にピタリと止まった。
「適量がわからぬが、まあ、ものは試しだ」
ゲルヌは手の中にあるものを傾けた。
ポトリ、ポトリと液体の滴る音と共に、強烈な異臭が辺りに漂う。
その効果は劇的であった。
大蜥蜴たちは「ギャアッ」「グギャッ」「ゴフッ」などと鳴き声を上げながら、ザザザッと足音を立てて逃げ散ってしまった。
「おお、覿面だな。ん?」
ゲルヌが上を向くのと、天井の近くから「もう、無理です!」という悲痛な叫び声がしたのが、ほぼ同時であった。
反射的に二三歩下がったゲルヌの前に、ドサッ、ドサッ、ドサッと人間らしきものが落ちて来た。
「痛ててっ! ひでえよ、コジュケーさん! おら、腹を打っただよ!」
「これでも、精一杯減速したんです! でなけりゃ、今頃みんな大怪我ですよ!」
ゲルヌは闇に眼を凝らしながら、「その声はクジュケ元参与か?」と尋ねた。
「おお、そうですとも、殿下。今、明かりを点けますので。鬼火、照らせ!」
先程まで青白い炎が浮かんでいた付近に、再び炎が燃え始めた。
その明かりの中、クジュケを真ん中に、左右にシャンロウとゾイアが並んで俯せに倒れている。
そこへ、隧道の天井からポーンとギータが降りて来た。
「おお、ゲルヌ皇子か! ご無事で何よりじゃったのう」
ギータは走り寄って、ゲルヌの両手を縛る綱を解いた。
「すまぬ。その様子では、余を救けに来てくれたのだな。礼を言う」
「なんの、礼はまだ早いですぞ。取り敢えず、ここから逃げねばなりませぬ」
すると、倒れたままのクジュケが、「だったら、ギータどの、早くわたくしを起こしてください」と少し怒ったように頼んだ。
「なんじゃ、甘えおって」
苦笑するギータに、クジュケは俯せのまま首を振った。
「違いますよ。理気力を使い果たしたんです。三人分の体重を支えたまま浮身して隠形していた、こっちの身にもなってください」
「わかった、わかった」
ギータが手を差し出すのと同時に、ゲルヌもクジュケの手を握って引っ張った。
「おお、畏れ多いです、殿下」
恐縮するクジュケに、ゲルヌは笑って首を振った。
すると、シャンロウが「おらも、おらも」と甘えた声を出した。
ギータとゲルヌに助けられてフラフラと起き上がったクジュケが、呆れてシャンロウを見た。
「おまえは何もしてないじゃありませんか」
しかし、ゲルヌはサッとそちらに移動してシャンロウの右手を掴み、「ギータ、左手を」と頼んだ。
「心得た」
そうして二人を助け起こしたことによって、余計に倒れたままピクリとも動かないゾイアの異常さが目立つことになった。
「どうしたのだ、ゾイア将軍は?」
訝しむゲルヌに、シャンロウが経緯を説明した。
「ならば、全員でゾイア将軍を担いで逃げるしかあるまい」
「逃げる?」
聞き返したシャンロウに、ゲルヌはその背後の方向を示した。
そこには、先程去って行ったはずの大蜥蜴たちが、また少しずつパラパラと戻って来ていた。
ゲルヌは苦笑した。
「思った通り、忌避剤には一時的な効果しかないようだ。もう一度撒いてみるが、いずれにせよ、残り少ない。大蜥蜴が離れた隙に逃げるしかない」
漸く少し回復した様子のクジュケが、困った顔で大蜥蜴を見た。
「ですが、枯れ井戸に繋がる方向には、こいつらがいますよ」
ゲルヌは、少し考えていたが、フッと後ろを振り返った。
「で、あれば、奥に進むしかない。微かだが風が流れているから、どこかに通じているはずだ」
ゲルヌは少し前に出ると、薬瓶を傾け、また二三滴垂らした。大蜥蜴たちは、再びザザザッと足音を立てて逃げたが、最初の時のように鳴き声はたてなかった。
ゲルヌは、薬瓶にコルクで栓をしつつ、大蜥蜴の様子をジッと観察している。
「うーむ。効き目が弱くなっている。急いだ方がよい」
ゲルヌとギータには無理なため、結局、まだ少しフラついているクジュケとシャンロウがゾイアの両脇を支え、奥に進むことになった。
一方、大蜥蜴たちが逃げて行った隧道の先にある枯れ井戸の上には、色や形が蜉蝣のように揺らめきながら人影が現れた。
「ほう。忌避剤の臭いがするな。ならば、奥へ進んだのだろう。そろそろ追ってみるか」
それは、真っ赤に目を光らせた、カルボンの姿であった。
カルボンの痩せた身体がスーッと空中に浮き上がり、そのまま足の方から井戸の中に吸い込まれるように消えて行った。




