304 誘拐(15)
ゲルヌが幽閉されている部屋に、潜時術を使って入って来たサンジェルマヌスに対し、ゲルヌは今すぐ逃げるつもりはないと告げたのである。
サンジェルマヌスはその理由は聞かず、別のことを問うた。
「わしのことを知っておるのか?」
ゲルヌは、サラサラとした赤い髪を白い指先でかき上げた。
「伝説の大魔道師としてならずっと以前から、時の狭間で色々悪戯をする翁という意味でなら、ウルスから聞いた」
「ほう、ウルスの方か。ああ、成程。ウルスラの経験することはウルスも共有するのであったな。で、わしが殿下を救けに来たと、思ったのであろう。それは違うな」
「誤解であるなら、すまなかった。よければ、そこの椅子に掛けられよ」
ゲルヌは、この部屋の寝台とサイドテーブル以外の唯一の家具である質素な椅子を勧めた。
「うむ。では、遠慮なく」
サンジェルマヌスが座るのを待って、改めてゲルヌは尋ねた。
「余を救けるのが目的ではないとすると、何故ここに?」
サンジェルマヌスは苦笑しつつ、話し始めた。
まず、説明して置かねばならんのは、本来この時の狭間では、因果を乱すようなことはできぬ、ということじゃ。
従って、通常はここで経験したことの記憶は残らない。
ウルスラの戴冠式の場合も、わしは最低限の情報を意識下に与えたが、後はウルスラが自力で跳躍したのだ。
まあ、ドーラとの対決ではもっと深く関わらねばならなかったが、それは別の理由じゃ。
あまりにも重大なことじゃから、ウルスラの記憶にも残るように操作した。
ともかく、単純に転送で殿下をここから救うという訳にはいかんのだ。
わしにできるのは、必要な情報を伝えることだけじゃ。
おお、ちと不遜な言い方になるが、『自らを救ける者を助ける』ということさ。
前置きが長くなってすまんの。
わしが伝えに来たのは、このエイサの歴史上の秘密じゃ。
これは、あの老師ケロニウスですら知らぬことよ。
遥かな昔、わしの故国ダフィニアがまだ未開の島であった超古代、ここには既にイサニアという高度な文明を持った都市があった。
ところが、中原全体に人が住めなくなるような大異変が起こり、イサニアは滅んだ。
生き残った人々の大半はダフィニア島に逃れ、そこで新たな文明を築いた。
ところが、その大異変の影響なのか、元々普通の人間であったはずの人々は、極端に長い寿命を得たり、両性具有になったり、神通力を持つように変わっておった。
そう、今で云う、失われた種族じゃよ。
一方、中原の方は無人の地となっておったが、徐々に人が住める状態に戻り、影響を受けなかった周辺の未開地にいた当時の蛮族たちが少しずつ流入して増えていった。
それが、今の中原の諸民族となったのだ。
その後、古代文明都市イサニアの跡地に、主知族が新たに自由都市イサニアを創ったのじゃ。
おお、また、寄り道が長くなったの。本題に戻そう。
さて、この地が自由都市イサニアであった頃、地下に古代神殿が再建され、そこへ参拝するため迷路のような隧道が造られていた。
その少し後、ダフィニア島が海没したんじゃ。
他の失われた種族も一斉に中原に渡って来たが、その中にアルゴドラスもおったのさ。
アルゴドラス聖王によってイサニアが滅亡させられた際、地下の古代神殿はノシス族自身の手によって厳重に封印され、そのまま遺棄されておった。
長い年月の間にその上に土が積もり、いつしか地下の神殿も隧道も忘れ去られ、その上に魔道師の都エイサができた。
封印が厳重であったため、地上に住む魔道師たちでさえ、何も気づかなかったのだ。
それを偶然発見した者がいた。
かの謀叛人ブロシウスじゃよ。
自分の帝国を創るため、せっせと古代の文献をあたりながら、市内の調査を行っている際、微かな磁場の乱れに気がついた。
地下に巨大な空洞があるとわかり、発掘を始めたところで、殿下の兄上ゲルカッツェに討たれたのだ。
その後の混乱で、そのまま放置されておったが、最近になって東方魔道師たちが発掘を再開し、取り敢えず隧道の一部は通れるようになった。
ところが、実利的なかれらは、迷路のような隧道の奥まで調べず、別のことに利用し始めたのだ。
この後、殿下はそこに連れて行かれる可能性が高い。
その時が、逆に脱出の好機となろう。
サンジェルマヌスは一旦話を止め、懐から薬瓶のようなものを取り出した。
「そのために、これを用意した。一種の忌避剤じゃ」
「忌避剤?」
訝しげなゲルヌに、サンジェルマヌスはニヤッと笑って片目を瞑って見せた。
「詳細は知らぬ方がよい。それに、言ったところで記憶に残らぬ」
ゲルヌは戸惑った顔になった。
「余の記憶を消すのか?」
サンジェルマヌスは笑顔のまま、首を振った。
「消すのではない、消えるのだ。但し、それでは意図が伝わらぬから、置き手紙でも残しておこう。殿下はわしのことを知っておったから、最小限のことだけ書いておけばいいじゃろう」
「しかし、最初に言ったように、余はすぐに逃げるつもりはない」
「そうであったな。それは何故じゃ?」
聞かれたゲルヌは、珍しく悲しげな表情になった。
「この地は、亡き父が中原の中心にしようとなされた都市だ。兄ならともかく、マオール人の自由にはさせたくない。できればこの際、取り戻したいと思っている」
その無謀な決意をサンジェルマヌスは揶揄することなく、頷いた。
「然もあろう。だが、それは今ではあるまいよ。危機の際、逃げること自体は恥ではない。また出直せばよいのだ。それに、殿下にその気がなくとも、間もなく逃げざるを得ない状況になる」
ゲルヌの決心は早かった。
「わかった。逃げることにしよう」
ふと、われに返ったゲルヌは、ランプの明かりが揺れているのに気づいた。
「ん? 何だか、一瞬だけ夢を見たような気がするが……。おや?」
ゲルヌは、サイドテーブルの上に乗っている薬瓶に気づいた。
その下に小さな紙切れがある。
「何だ、これは?」
紙切れには、次のように書いてあった。
【危険が迫ったら、これを周囲に撒け。悪戯好きの翁、サンジェルマヌスより】
「ほう。そういうことか」
ゲルヌが薬瓶と紙を懐にしまった直後、いきなり扉が開いた。
東方魔道師数名が立っている。
「ゲルヌ皇子、一緒に来てもらおう」




