299 誘拐(10)
縁戚のチャダイ将軍の暴言によって自分の立場が危うくならぬようにと、兵を動かして始末した宰相チャドスだったが、皇帝ゲルカッツェから謀叛の疑いを掛けられていた。
ゲルカッツェは、自分を追い出して代わりに弟のゲルヌを擁立するために匿っているのではないかと、チャドスに問い質したのである。
チャドスは、細い目を裂ける程開いてゲルカッツェの顔を見た。
すぐには言葉も出ないようで、口は半開きの状態で止まっている。
が、気を取り直したように表情を改め、ガバッと床に平伏した。
「わが身の不徳の致すところとはいえ、それはあまりのお言葉。このチャドス、先帝ゲール陛下崩御の砌より、一途にゲルカッツェさまをご支持申し上げ、その思いが揺らいだことなど、一度もございません。そのわたくしが、国を捨てて自由都市に肩入れするようなゲルヌさまを奉戴するなど、あり得ませぬ!」
次第に声が大きくなり、最後の方は叫ぶように断言したチャドスを、ゲルカッツェは寧ろ不快そうな顔で眺めていたが、膝枕しているドランに頬を撫でられ、フッと表情を緩めた。
「なら、いいんだ。もう、戻っていいよ」
「しかし」
更に弁明の言葉を述べようと顔を上げたチャドスは、ゲルカッツェの様子に鼻白んだ。
大仰な言葉で話されるのが嫌いなゲルカッツェは、最早チャドスのことなど眼中にないようで、ドランに「そろそろお菓子を食べる時間じゃないかな?」と、甘えたように催促しているのである。
これ以上ここにいても無駄だと悟り、「失礼いたします」と言い捨てて、チャドスはゲルカッツェの私室を出た。
扉を閉め、廊下を歩きながら思い切り毒づいた。
「馬鹿にしおって! 食気と色気しかない若造のくせに! いったい、誰の入れ智慧だ? くそっ! 絶対に突き止めるぞ!」
チャドスは歩きながら天井を見上げ、何もないところに話し掛けた。
「東の塔の上に行く。タンリンの阿呆に、すぐ来るよう伝えよ!」
すると、天井の辺りから「御意!」と返事があった。
お気に入りの塔の最上階の部屋に入ると、チャドスは身を投げ出すように安楽椅子に座り込んだ。
待つ程もなく、開け放たれている窓から、スルリと長身の男が入って来た。
鍔の広い帽子から覗く目つきが鋭い。
東方魔道師のタンリンであった。
安楽椅子に踏ん反り返って座っているチャドスの前に、タンリンは片膝を着き、帽子を被ったまま頭を下げた。
「お呼びでございますか?」
チャドスはものも言わずにその帽子を蹴ろうとしたが、スッとタンリンの両手が伸びてチャドスの足を掴んだ。
タンリンは平静な声で「お戯れを」と笑いながら、チャドスの足をゆっくりと、しかし、有無を言わせぬ強い力で床に下ろした。
チャドスの顔が怒りと恥辱で赤くなったが、それどころではないと思い直したらしく、「どうなっておるんだ!」と叱責の声を上げた。
「どう、とは?」
「決まっておろう! おまえに捜すよう命じていたチャダイが突如皇帝宮の広場に現れ、あろうことか、皇帝をゲルヌに替えよと叫んだのだぞ!」
まだ何も知らなかったらしいタンリンは、「ほう、それは大変でしたな」と他人事のように感想を述べた。
「何じゃ、その言い方は!」
またカッとなったチャドスは、手近にあった林檎の実をタンリンの顔目掛けて投げつけた。
タンリンは、ホンの僅か顔を動かしただけでそれを避ける。
当たらなかった林檎は、そのまま窓の外に消えた。
タンリンは涼しい顔で、軽く頭を下げた。
「宰相閣下、少し落ち着かれませ」
昂奮して肩で息をしていたチャドスは、不貞腐れたように椅子の背もたれに全体重を預けて上を向いた。
「もうよい。おまえの顔など二度と見たくない。失せろ!」
だが、タンリンは薄っすら笑みを浮かべたまま、小さく首を振った。
「そうは参りませぬ。チャドスさまをお手伝いせよ、とのヌルギス皇帝陛下の命に背くことになってしまいますから」
ヌルギスという名前を聞いた途端、チャドスはハッとして居住まいを正した。
「そう、であった、な。うむ。わしも、ちと大人げなかった。許せよ」
タンリンは表情を改め、今度は手を添えて大きく首を振った。
「いえいえ、とんでもないことです。それより、この後どう処理されますか?」
落ち着きを取り戻したチャドスは、ニヤリと笑った。
「決まっておろう。せっかく攫ったものの、こうなると却って荷厄介だ。速やかにゲルヌを亡き者にせよ」
「はっ!」
その頃、ゾイアの一行はエイサを目前にして、空中で東方魔道師たちと遭遇していた。
ゾイアの背中に乗っているギータが、前方から迫って来る不吉な黒い鳥のような姿を発見したのである。
明らかにゾイアたちを目標にしているようだ。
「どうしたことじゃ! まだエイサまで距離があるぞ!」
ゾイアは飛行速度を落とし、前方を確認した。
「間違いない。東方魔道師だ」
クジュケはゾイアに繋がれた綱を持っていた手を放し、前に飛んで来た。
「わたくしにお任せください」
すると、反対側にいたシャンロウも、こちらはロープの端を握ったまま、「おらも闘うだよ」と前に出て来た。
慌てたクジュケが「いや、おまえは」と止める間もなく、至近距離まで来ていた東方魔道師たちから驚きの声が上がった。
「シャンロウ! 帽子もなしに、何故飛べるのだ?」
その言葉が聞こえた瞬間、シャンロウの身体が真っ逆さまに落下を始め、ゾイアもロープで引き摺られて落ちて行った。




