289 和平会談(7)
一万五千の兵の解放を拒絶したアルゴドラスは、ウルスラとサンサルスに殺気を向けた。
それを助けようとするツイムより先に、ヨルムが大蛇に変身してアルゴドラスの前に立ち塞がったのである。
だが、普通の老人の姿となったアルゴドラスは平然と立ち上がり、目を細めて大蛇を矯めつ眇めつ見て、皮肉な笑みを浮かべた。
「二千年の寿命をもつという妖蛇族にしては、随分若いな。ホンの仔蛇よのう」
ヨルムの変身した大蛇は、人間の頭を一呑みにしそうな大きな口から、先が二つに割れた真っ赤な舌をチロチロと出し、今にもアルゴドラスに襲い掛かろうとしている。
「おやめなさい、ヨルム。これは和平を話し合う場ですよ」
穏やかな声でそう窘めたのは、無論、サンサルスである。
サンサルスの言葉は絶対であるらしく、大蛇は一瞬にして消え、元の席にヨルムの姿で戻り、深々と頭を下げた。
「失礼いたしました、猊下」
しかし、ヨルムが大蛇の本性を見せたことで、アルゴドラスも一気に片を付けることはできないと悟ったらしく、殺気を消した。
アルゴドラスは意地悪く「見事に飼い馴らしたものよ」と、サンサルスの方を褒めた。
サンサルスは、両方の眉を上げてお道化たように笑う。
「お褒めに預かって、恐悦至極に存じ奉りまする。さて、お話を進めてもよろしいですか、陛下?」
アルゴドラスは「好きにせよ」と告げると椅子に座った。
目を半眼に閉じてゆっくり呼吸すると女性形に戻り、いつもの美熟女ドーラの姿となって、冠を被る。
サンサルスに妖艶な微笑みを向けた。
「おまえの提案とは何じゃ、妖精族?」
サンサルスの方も、この世のものとも思えぬ美しい顔に戻した。
「はい。陛下、いや、ドーラさまは一万五千の兵力を取り戻したいとお考えのようですが、もし、今かれらが戻ったとて、すぐに戦力とはなりますまい。寧ろ、いつ叛乱を起こされるかと心配の種を作るだけでございます。それに、現在も盛んに傭兵を集められているようですから、すぐに補充できるのではありませんか?」
ドーラは顔を顰めた。
「ふん。虫の好いことを申すな。それでは、こちらに何の得もないわ」
サンサルスは、何か言いかけたウルスラの肩に置いた手に、少しだけ力を籠めた。
「いいえ。大いにお得だと思いますよ、二十万人を敵に回すよりは」
ドーラは鼻に皺を寄せた。
「脅すつもりか!」
サンサルスはまたお道化た笑顔を見せた。
「とんでもないことでございます。元々わたしはウルスラさまを教団の後継者にと望んでおりました。今、バロードの王位継承権を剥奪するとのお話を聞き、不謹慎ながら、内心小躍りしております。もし、これ以上強硬策を採られるようなら、直ちに教主の座をお譲りするだけのこと。それでよろしゅうございますか?」
ドーラは少し苦笑してしまった。
「ふん。やはり脅しではないか。まあ、よいわ。こちらも早急に善後策を考えねばならん。今回は大目に見よう。ニノフの王位継承権は即刻剥奪するが、ウルスについては一旦保留とする。一万五千の兵は国外追放のみの処分とするが、今後戦場で相見えた際には、一切容赦せぬ。また、『自由都市同盟』とは完全に終戦とし、今後の外交関係は実務者同士で話し合う。これでどうじゃな?」
サンサルスは直接答えず、肩越しに「ウルスラさま、如何でございますか?」と尋ねる。
ウルスラは、ドーラの顔を確り見て答えた。
「わたしに異存はございませぬ、お祖母さま」
ドーラの顔に少しだけ笑顔が浮かぶ。
「殊勝じゃな。では、帰るとしよう。うむ。コウモリに変身する気力ものうなったわ。このまま跳ぶかのう」
そのまま、跳躍しようとするドーラに、サンサルスが「お待ちください」と呼び止めた。
「なんじゃ、まだ何かあるのか?」
面倒そうに聞くドーラに、サンサルスは壁面に磔状態のチャダイ将軍を指した。
「お忘れものでございます」
ドーラは「わかっておるわ!」と吐き捨て、先にチャダイを転送すると、直ぐに消えた。
周りを見回して気配を探っていたサンサルスは、改めてウルスラの正面に回って微笑んだ。
「もういらっしゃいません。ご安心ください」
ウルスラも緊張から解放されて、ホッとしたような笑顔を見せた。
「ありがとうございます、サンサルスさま」
「いえいえ。こちらこそ、出過ぎた真似をしまして、すみませんでした」
「そんなことありません。この度は、本当に自分の未熟さが身に沁みました。サンサルスさまがいてくださらなかったら、どうなったことか。でも、お祖母さまは、ああ仰っていましたが、父上は納得されるのでしょうか?」
「ええ。これはわたしの推測ですが、結論は最初からあれに近いものであったはずです。最初に恫喝するのは、外交交渉の手練手管ですから。尤も、チャダイ将軍を殺してしまったため、多少は譲歩したでしょうが。おお、そうだ。お母上のことは、あくまでもわたしの想像です。あまり思い詰められませんように」
ウルスラは俯いた。
「わかっています。たとえそうだったとしても、それは魔剣のせいです。お祖母さまを恨みはしません。余計に天国の母上を悲しませるだけですから」
ウルスラを慰めようと、サンサルスが声を掛けようとした、その時。
ひどく慌てた様子で、このダナムの街の住民が駆け込んで来た。
「申し上げます! 商人の都サイカより、火急の知らせが入りました! ゲルヌ皇子が誘拐されたそうでございます!」




