275 一難去って
後で調べてわかったことだが、クルム城の女官たちの間ではレナの妊娠は周知の事実であり、ただ、アーロンの子としか考えられないため、マーサ姫に気を遣って黙っていたらしい。
ニノフの出発時間が迫っていたが、アーロンは疑われたままで別れたくないと、何度も身の潔白を主張した。
ニノフも苦笑して「おれは信じていますよ。それより」と真面目な顔に戻って、ケロニウスに詫びた。
「本当に申し訳ありませんでした、老師。誰よりも信ずるべき相手を疑うとは、おれが未熟でした」
ケロニウスは笑って手を振った。
「いやいや、同じ立場なら、わしも疑っておったさ。バロードから戻ったばかりで、怪しげな薬を飲まされたと自分から言っていたんじゃからな。あの女、どうやら漏らす必要のない情報まで流していたらしい。クルム城の中に疑心暗鬼を生じさせるためさ。わしらは、まんまとそれに引っ掛かったのじゃよ」
自分が一方的に激昂したことを恥じ、ずっと黙り込んでいたマーサ姫が、スッとアーロンに近づいて、深々と頭を下げた。
「すまぬ。わらわの誤解であったようだ。よくよく考えてみれば、月数が合わぬ。恐らく、わらわたちと出会った時には、既に身籠っておったのだろう」
アーロンは心底ホッとしたように笑った。
「わかってもらえれば、それでいい。もうすぐニノフ殿下が渡河される時間だが、姫はここに残ってくれるのだろう?」
マーサ姫は、突然この部屋に押しかけて来てから、初めての笑顔を見せた。
「勿論ですとも。わらわが閣下をお護りせねばなりませぬ。強い敵からも、そして、若くて美しい女からも」
皆大声で笑ったが、アーロンの笑いだけは少し引き攣っていた。
ニノフが向かう暁の女神の砦には、ゾイアたちの方が先に到着していた。
出迎えたのはペテオとヨゼフである。
「ゾイアの大将! 待ちかねたぜ!」
「あううっ!」
言葉が不自由なヨゼフは、嬉しくて堪らないように笑っている。
ゾイアは馬を飛び降り、二人の手を握った。
「心配させてすまなかった。それより、二人とも無事で何よりであったな。北長城が腐死者の群れに襲われ、マリシ将軍が片腕を失われたことは、われの耳にも入っている。大丈夫そうか?」
ペテオは意外にサバサバした表情で応えた。
「ああ、大丈夫さ。腕を斬った直後は確かに危なかったが、ニノフ殿下に、いや、妹のニーナさまに助けてもらったよ」
怪訝な顔をするゾイアに、ペテオは掻い摘んで説明してやった。
「成程。やはり、ウルスたちの兄弟なのだな。おお、そうだ、われの方にも積もる話がある。ゆっくり話したいところだが、取り敢えず、他の者たちを休ませてやってくれぬか?」
そこへ丁度、先行していたゾイアにロックが追いつき、割り込んできた。
「そうともさ! おいらたちは包囲戦でくたびれたのに、こっちが心配だからって、充分に休ませても貰えずに、ここまで駆け通して来たんだぜ。旨いものを食わせてくれるとか、酒が用意してあるとか、なんかあるんだろう?」
ペテオの返事は一言であった。
「ない」
怒って言い返そうとするロックを、ゾイアは笑いながら止めた。
「到着したばかりなのは、ペテオたちも同じだ。とにかく、適当に寝転がるなりして身体を休めればいい。食事は携行食がまだ残っているだろう。これから先は長いのだ。食料も、必要なら酒も、われら自身で作り出さねばならん。新しく国を創るのだからな」
ロックはまだ膨れていたが、「なんだよ、自分が王さまみたいに」と呟くと、本当に疲れていたらしく、その場で草の上に横になった。
後から来た兵士たちもそれは同じで、到着するなり、その場に座り込んだ。
かなりの強行軍であったのは事実のようだ。
ところが、その中で、一人だけ疲れを見せない人物がいた。
元参与のクジュケである。
一応、馬に乗っているのだが、その尻は馬の背に接していない。
ホンの少しだけ空中浮遊しているのだ。
本人も揺れずにすむ上、馬にも負担がかからず、両者とも元気いっぱいである。
それを目にしたペテオは、呆れた顔をした。
「それなら、馬は要らねえんじゃねえのか?」
クジュケは澄ました顔で言い返す。
「それでは恰好がつきません」
ゾイアも笑っていたが、ふと、表情を引き締めた。
「元気があるなら、さっそくだが、今後の相談をしよう。よいか?」
クジュケは「わたくしでしたら、いつでも構いませぬ」と頷いた。
早くも眠りかけているロックは、片手だけ上げてヒラヒラと振った。
どうぞ勝手に、ということのようだ。
ペテオは小声で「その方が話が早く進むな」と言って笑った。
一方、サイカを出たウルスとツイムは、和平会談が行われる自由都市ダナムに向かって、緩衝地帯を馬で進んでいた。
と、ツイムが、前に乗せているウルスの肩をクッと掴んだ。
「お気をつけください。狙われているようです」
「え?」
驚いたウルスが前方を見ると、馬に乗った数名の人相の悪い男たちが、こちらをジッと見ている。
その中心にいる男を見て、ウルスは思わず声を上げた。
「あっ、あれは……」




