274 蛮族の花嫁
辺境伯領のクルム城では、北方警備軍と機動軍の渡河が愈々大詰めを迎え、両者を代表して機動軍のニノフ将軍がアーロン辺境伯に別れの挨拶を告げるため、アーロンの私室に来ていた。
「アーロン閣下には、本当にお世話になりました。お礼の言葉もございません」
頭を下げようとするニノフを、アーロンは慌てて押し止めた。
「とんでもないことでございます。本来なら、殿下はわが主筋に当たられるお方。わたしは当然の務めを果たしただけでございます」
ニノフは苦笑した。
「それはもう千年以上も前の話です。それに、おれは正式にバロードの王子として認められた訳でもありませんし」
アーロンは人の好さそうな笑顔で首を振った。
「いえいえ。たとえ今の国王陛下がお認めにならずとも、バロードの国民は皆それを望んでおるでしょう」
ニノフの顔が曇り、遠くを見るような目をした。
「母国の現状には、おれも胸を痛めています。ですが、先ずは足下を固めねばなりません。暁の女神に着きましたら、井戸を掘削し、農業生産の道筋をつけねばなりません。とにかく、皆が餓えることのないようにしなければ、国家設立も何もあったものではありません。それまでは、いただいた備蓄兵糧で食い繋ぐつもりです」
アーロンは少し涙ぐみながら、ニノフの手を取った。
「どうか無理をなさらずに。追加の食料が必要な時には、遠慮なく申し出てください。わが辺境伯領にも、それぐらいの余力はございますぞ」
ニノフもアーロンの手を握り返した。
「なるべくそうならぬよう努めますが、愈々の時には、甘えさせていただきます」
「おお、是非そうさせてください」
二人が手を取り合って固い絆を誓い合っていた、将に、その時。
バーンという激しい音と共に、部屋の扉が開いた。
誰かが蹴り開けたようだ。
思わず剣の柄に手をかけた二人は、入って来た相手を見て唖然とした。
燃えるような真っ赤な鎧を身に纏い、少し癖のある長い金髪を振り乱し、エメラルドグリーンに煌めく瞳をした若い女。
「マーサ姫!」
そう叫んだアーロンを視線だけで殺し兼ねないような物騒な目で睨みつけると、マーサ姫はすぐにニノフの方に向き直った。
「殿下! わらわも渡河いたしまする! このような汚らわしい城になど、一時もおりとうございませぬ!」
理由を尋ねる前に、ニノフは一番心配していることを先に聞いた。
「父上をどうなさる?」
マーサの父であるマリシ将軍は、腐死者化した部下に手を噛まれ、自分もンザビとなることを防ぐため、自ら腕を斬り落とした。
その後の止血の処置が悪く、死線を彷徨っているところを、ニノフの女性形であるニーナの癒しによって救われたのである。
「父は、わらわが担いででも連れて参ります! このような場所に置いては行けません!」
如何に鈍感なアーロンでも、ここまで言われれば、マーサが自分に怒っているらしいことはわかった。
「どうしたのだ、姫? わたしが何か気に障るようなことを、言ったりしたりしたのなら詫びよう。理由を教えてくれ」
マーサの眉がキリキリと吊り上がった。
「よくも抜け抜けと! ああ、もう嫌! 言うだけで口が汚れる! あの蛮族の娘のことよ!」
アーロンはまだピンと来ないようで、首を傾げた。
「ああ、レナのことか。レナが姫に何か言ったのか?」
「言われなくとも、見ればわかりまする! あの娘は妊娠しておりますぞ!」
「妊娠? いったい誰が。ああっ、わたしを疑っておるのか?」
マーサは怒りを通りこして、呆れたようにアーロンの顔を見た。
「何を白々しい。閣下を慕って北方からついて来た娘に、他の誰が手を出すと言うのですか? それを、可哀想だから置いているだけで、いずれは身の振り方を考えてやるつもりだなどと嘘を吐かれて」
アーロンも必死で弁明した。
「いや、嘘ではない。北方が人の住めない土地になってしまい、行く当てもないレナを追い出す訳にもいかず、わたしも悩んでいたのだ。決して、ふしだらなことなどしておらん。神に誓う」
怒りが激しかっただけに、マーサも引っ込みがつかず、憮然とした顔で「じゃあ、いったい誰が」と呟いた。
そこへ、「どうしたんじゃ、大きな声が廊下まで丸聞こえじゃぞ」と笑いながらケロニウスが入って来た。
密かにケロニウスを間者ではないかと疑っているニノフは、何と言おうかと迷い、「ああ、いえ、姫の誤解のようです」と口を濁した。
ケロニウスは気にする様子もなく、真面目な顔になった。
「取り込み中に申し訳ないが、ちと、気になることがあってのう。丁度三人揃われておるし、今、少し話してもよいかの?」
寧ろ救われたように、アーロンが応えた。
「勿論ですとも、老師。何でしょうか?」
「うむ。どうも、クルム城内の情報が外部に漏れている気配があって、調べておったんじゃが、何人かに聴いている内、どうもある人物の行動が疑わしくなってきた。それで、本人に直接聞こうと思って訪ねたら、すでに部屋は蛻の殻じゃったんじゃ」
ニノフの顔色が変わった。
「もしや、その人物とは」
「うむ。蛮族の娘じゃ。確か、レナとかいうたかの」
ドーラが不在の聖王宮で、一人考えごとしている聖王カルスの部屋に、秘書官がやって来た。
秘書官といっても、刺青だらけの蛮族である。
少し訛りのある中原の言葉で報告した。
「レナさまから、連絡、きた。そろそろ、お腹、目立つ。バレない内、戻る、と」
カルスは嬉しそうに笑った。
「おお、そうか。では、気をつけて戻るように言ってくれ。余の跡継ぎを産む、大事な身体だからな」




