273 教唆
ガルマニア帝国宰相のチャドスは、皇帝宮の中に、自分用の執務室を幾つか持っている。
その中でも近頃一番のお気に入りは、皇帝宮の東端にある尖塔の最上階の部屋であった。
そこからは皇帝宮全体が見下ろせるため、ゲール皇帝が健在の頃なら、それだけで打ち首になっていたであろう。
思いの外扱い辛くなってきた新皇帝ゲルカッツェに腹が立つと、ここに来て憂さ晴らしするのが最近の日課のようになっている。
今しもその部屋で、チャドスは自分用の安楽椅子にドカリと座り、足を投げ出して手紙を読んでいた。
書かれている文字は、中原のものではないようだ。
一通り読むと、手紙をビリビリに引き裂いた。
「ふん。早く支配体制を確立せよと言われたところで、どうにもならんわ。ツァラトなどはまだマシな方だ。他の将軍たちなど、ゲルカッツェを舐め切って、寄り付きもせん。下手をすると、個々バラバラに独立しかねんわい」
吐き捨てるように独り言ちたところで、天井から声がした。
「宰相閣下にご報告がございます」
チャドスは、細い目をいっぱいに開いて、見えない相手を睨みつけた。
「何だ? わしは今、機嫌が悪いのだ。良い知らせでなくば、後にしろ」
「畏れ入りますが、そういう訳にも参りません。実は、先程宮殿内で理気力の発生を感知いたしました。曲者が入り込んでいるようです」
チャドスの顔が、みるみる怒りで赤く染まった。
「阿呆! それなら早く言わんか! 態々本国に無理を言っておまえたちを増員したのに、この為体か!」
「ですが、帝都ゲオグストへの侵入者を警戒しておる者たちからの報告では、全く魔道師の気配はなかったと、あっ、な、何者」
天井からの声がプツリと途絶えた。
ギクリとした顔でチャドスが周囲を見回すと、少し開いていた窓から、ヒラヒラと灰色のコウモリが入って来た。
「あっ、おまえか!」
椅子から立ち上がり、後退るチャドスの目の前で、ノスフェルはクルリと宙返りした。
そこに現れたのは、銀髪の美熟女ドーラの姿である。
驚くチャドスの顔を見て、嫣然と微笑んだ。
「お久しぶりでございまするな、宰相閣下。前回は、当時のゲルカッツェ皇太子が、イサニアン帝国にご出撃なさる直前でしたかのう」
「ど、どうやってゲオグストに入った?」
ドーラは口に手を当てて、ホホホと笑う。
「それは申せませぬ。そんなことより、随分お困りのご様子でござりまするな?」
だが、チャドスの方も皮肉な笑いを浮かべた。
「ほう? 困っておるのはそっちではないのか? 高が自由都市一つを相手にした戦争に負けるなど、とても聖王国を名乗る国とも思えぬが」
ドーラの笑顔が凍りつき、その裏の怖ろしい本性がメラッと揺らめいた。
が、それも一瞬のこと。
「まあまあ、そう仰いますな。相手が孫娘では、こちらも本気が出せませぬ。本来なら、蛮族軍と機械魔神を差し向けるところを、手心を加えたのが裏目に出ただけのこと。何でしたら、ガルマニア帝国がわれらの本当の力をお試しになられますかえ?」
しかし、チャドスはドーラの挑発には乗らず、別のところに反応した。
「孫娘? どういうことだ?」
ドーラは態とらしく舌を出して見せた。
「おお、これはわたしとしたことが、口が滑りましたな。が、まあ、バロードの領内では最早公然の秘密。他ならぬ宰相閣下になら、申し上げても差し障りございますまい。わたしは聖王カルスの生母でござりまする。よって、此度の包囲戦でサイカ側の代表のような立場になっている王女ウルスラは、孫に当たりますのじゃ」
「成程、魔女の直系か。あ、いや、相わかった。で、王女のおばばさまが、わしに何の用だ?」
おばば呼ばわりはさすがに癇に障ったようだが、ドーラはグッと奥歯を噛んで堪えた。
「わが孫ウルスラがサイカ側の代表であるのは表向きのこと。実際に軍を差配したのは、別の人物でござりますぞえ。誰かご存知であられますかのう?」
チャドスは嫌な顔をした。
「噂は聞いた。ゲルヌさまらしいな」
「ええ、正に、ガルマニアの悲劇の皇子ゲルヌ殿下にあらせられまする。殿下は僅か十歳にして一万の大軍を相手に戦い、予期せぬ援軍があったとはいえ、勝利を収めたのですぞ。巷では、ゲール皇帝の再来と専らの評判でございますなあ。ゲルヌさまこそ、皇帝に相応しいお方だと」
チャドスのツルリとした顔が、再び怒りで真っ赤になった。
「黙れ! ガルマニア帝国の正統な皇帝は、憎きブロシウスを討伐されたゲルカッツェ陛下だ! ブロシウスに追われて国外逃亡したゲルヌなど、皇位継承の資格はない!」
ドーラは、してやったりという笑顔になった。
「実は、われらもそう思っておりまする。逃げた王女と逃げた皇子が、偶々幸運に恵まれただけのこと。ところが、そんなことを知らぬ世間は、勝手に持て囃しまする。挙句には、この二人が結婚すれば、中原統一は一気に果たされるなどと、愚にもつかぬお伽噺を言い始めておりますぞえ」
チャドスの顔がスーッと白くなった。それがお伽噺では済まないと思ったのであろう。
「そんなことは、断固として許さん!」
「ああ、勿論ですとも。以前に申し上げましたように、わが聖王陛下のお望みは、ガルマニア帝国と中原を東西に二分して、相互に不可侵を保つこと。それがお互いの利益を守る、最善の策と信じておりまする。で、あれば、われらはウルスラを何とかし、そちらさまは」
ドーラの狡猾な視線に、チャドスも陰険な表情で応えた。
「皆迄言うな。訪問の趣旨はわかった。わしらにとっても重大な問題だな。ところで、和平会談をするというのは本当か?」
ドーラはニヤリと笑った。
「ええ、まあ。どういう結果になるかはわかりませぬがのう。相手のウルスラは、そろそろサイカを出た頃でしょうな。各方面の援軍も去って、はて、今サイカに残っておられるのは、どなたでしたか、よくは知りませぬが」
チャドスは、些か辟易したように手を振った。
「もうよい。後はこちらで考える」
「おお、思わず長居をいたしましたぞえ。それでは、皇帝陛下をお大事に」
ドーラは、その場でクルリと宙返りすると、灰色のノスフェルとなって窓から出て行った。




