272 賓客
その頃自由都市ダナムでは、サイカとバロードの和平会談が行われることよりも、仲裁役として出席する予定の教主サンサルスを迎える準備に大童であった。
妖精族であるサンサルスは凡そ千年の寿命をもつため、前回ダナムを訪れたのは数十年前で、その時のことを覚えている住民はもう殆ど残っていないのである。
無礼があってはならないと過剰な持て成しを準備しているところへ、詰襟制服の青年ヨルムが先乗りして来て、住民たちを窘めた。
「兄弟姉妹よ! 勘違いしてはならぬ! 猊下は、このような贅沢は望まれない! 質素、倹約、敬虔が、わが教団の信条ではないか!」
住民を代表して、白髪の老人が罷り出てきた。
「なれどヨルムさま、前回もこのくらいのご接待をしたような気がしますのじゃが」
ヨルムは笑って首を振った。
「失礼ながら記憶違いですよ、ご老体。前回のことは、わたしがハッキリ覚えておりますので」
そう言われて老人が納得したところをみると、ヨルムが見かけどおりの年齢ではないことは、信者たちには周知の事実のようである。
別の住民が「結界は如何いたしましょうか?」とヨルムに尋ねた。
「無用です。兄弟姉妹たちが、謂わば生きた結界です。気持ちを平静に保つように言ってください」
「ははっ!」
その後も、ヨルムはにこやかに住民たちに助言を与えたていたが、ふと、遥か北の空を見上げて、眉を曇らせた。
「心配なのは、サンサルスさまのご体調だけだが……」
一方、会談の当事者の一人であるウルスラ王女は、護衛役のツイムと共にサイカを出発しようとしていた。
相変わらずライナとギータはサイカの復興に忙殺されているため、見送りはゲルヌ皇子一人である。
「本当は余も一緒に行きたいところだが、そうもいかぬ。やるべきことがまだ残っているからな」
ゲルヌは僅か十歳ながら、包囲戦での活躍によってサイカの人々から頼りにされるようになっている。
特に、大損害を被った軍事面の再建は急務であり、髭面の大人たちに的確な指示を与えているのだ。
その辺りのことは、ウルスラも充分理解している。
「わたしなら大丈夫よ。ここからダナムまでは、中原の中でもプシュケー教団の信徒が多い地域らしいから、これが役に立つわ」
笑顔でそう言いながら、襟元を少し開いて、首飾りを出して見せた。
細い金の鎖の先に、プシュケーを表す古代文字を象った宝玉が付いている。
サンサルスから貰った、客人の印である。
ウルスラが襟元を開いた瞬間、ゲルヌがホンの少し頬を赤らめて目を逸らしたのを、隣にいたツイムは微笑ましそうに見ている。
ゲルヌは横を向いたまま、「道中は、ウルスの方がよいのではないか」と提案した。
ウルスラの顔が上下し、瞳の色がコバルトブルーに変わった。
「うん、ぼくもそのつもりだよ。じゃあ、そろそろ行くね」
ゲルヌは表情を改めてウルスを真っ直ぐに見た。
「余から言うべきことは、唯一つだ。決して油断するな」
ウルスも唇を結んで深く頷く。
ツイムが「では、参りましょう」と声をかけ、ウルスを先に馬に乗せてからその後ろに乗った。
ウルスは振り返り、ゲルヌに「行ってくるよ!」と別れを告げた。
それを見送るゲルヌは、いつもの大人びた顔ではなく、朋友を心配する子供らしい表情になっている。
何も言わず、癖のないサラサラした赤い髪を揺らしながら、いつまでも手を振っていた。
もう一人の当事者である、ウルスの祖母ドーラは、若き舞姫ドランとなって、ガルマニアの新皇帝ゲルカッツェに侍っていた。
美しいだけでなく、唄も踊りも上手く、旅先で見聞きした面白い出来事を聞かせる話術も巧みで、忽ちゲルカッツェは夢中になった。
それでも美女軍団は側に置き、ドランはその中心的存在という扱いである。
「ドラン、このままずっと側にいておくれ」
甘えたように言うゲルカッツェに、ドランはピシリと言い放った。
「そうはいきませんわ。わたしはまだ修行中の身。もっと見聞を広めとうございます」
すると、ゲルカッツェは色をなして叫んだ。
「ぼくは皇帝だぞ! これは命令だ!」
ドランは鼻で笑って「困った坊やよのう」と呟いた。
「何だって?」
ドランは惚けて、知らぬ顔をした。
「いえいえ、何でもありませぬ。ご命令とあらば、致し方ありませぬ。これをご覧ください」
ドランはゲルカッツェに人差し指の先を見せ、ゆっくり左右に振った。
「これはどういう」
意味かと問う間もなく、ゲルカッツェの目はトロンとなった。
その耳元で囁くように、ドランは、いや、ドーラはこう告げた。
「ほら、陛下の目の前に、ドランがおりますよ。話し掛けてくださいませ」
ドーラが人差し指をスッと横に動かすと、ゲルカッツェは横を向いて、誰もいない空間に「ドランは本当に美しいね」と微笑み掛けた。
ドーラは立ち上がると、周りで訝しんでいる美女軍団にも、人差し指を立てて見せた。
「さあ、おまえたち。陛下の側にはドランがいるよ。何も変わったことはない。いいね?」
美女たちも、目をトロンとさせて頷く。
ドーラはまた鼻で笑った。
「わたしは忙しいんだ。これから、チャドスの阿保と話さなきゃならないからね」
ドーラはその場で宙返りすると、灰色のコウモリとなって部屋から出て行った。




