270 潜入
和平会談の予定地に決まった自由都市ダナムは、中原の中央部、やや西寄りにある。
別名を『兄弟姉妹の集う街』とも呼ばれ、住民の八割がプシュケー教団の信者によって占められている。
創られて百年程の、比較的新しい都市であった。
聖地シンガリアがそうであるように、本来、プシュケー教団は固定した拠点を持たない。
シンガリアの教団本部が木造なのも、いつでも壊して別の場所に遷れるようにということである。
これは、教団創設以来の長い弾圧の歴史によるものだという。
そうした中、教団は徐々に信者を増やし、今では公称二十万人とされ、最早中原の一大勢力として揺るぎない存在となった。
これを弾圧するような強権を持った国はガルマニア帝国しかなく、そのため今でもガルマニアにだけ殆ど信者がいない。
そんなプシュケー教団が、初めての固定した拠点を中原中央部に置いたのは、いずれ中原全土に教線を拡大するための布石であろう。
その最大の障害となるのは勿論ガルマニアであり、かつてシャルム渓谷で両者が激突したのは、歴史の必然であったと見ることもできる。
今、そのダナムの遥かな上空を、一匹の灰色のコウモリがヒラヒラと飛んでいる。
和平会談の一方の当事者である、カルス聖王の母ドーラの変身した姿であった。
しかし、下に降りる気配はない。
会談までは、まだ数日あるからだ。
「ふむ。特に何か仕掛けたとは見えぬな。余程自信があるのだろう。実際、あれだけの人数の信徒が集まっておれば、無自覚な理気力の集積も相当なものじゃ。下手な小細工はできん。まあ、そんなつもりもないが」
ドーラの変身したノスフェルは、急に速度を上げるとフッと消えた。
その数秒後、かなり東に進んだ位置の空に、ポッと出現した。
予め設定された自分用の座標を経由して、時間を節約しているようだ。
ドーラの飛んでいる下には、かつての魔道師の都からガルマニアの新都となり、更にブロシウスのイサニアン帝国の帝都ともなり、今はガルマニアとマオール帝国の共同統治のような状態になっている、エイサが見えてきた。
「無残よのう。あの濁った霧のようなものは、東方魔道師の結界じゃな。本来の清浄の気が、見る影もないわ。せめてバローニャだけでも取り戻してやりたいが、その前にすることがある。チャドスの阿呆に会って調略せねばならんからの」
再びドーラはフッと消え、また現れ、また消えと、短時間で大きな距離を稼いだ。
やがて前方に、ガルマニア帝国の帝都ゲオグストの威容が近づいて来た。
が、ドーラは空中停止し、ノスフェルの姿のまま舌打ちした。
「何じゃ、この濁りは!」
エイサで見た濁った霧が、ゲオグスト全体をスッポリ覆っているのだ。
「東方魔道師の数が増えたのであろうな。この姿のままでは近づけぬの。仕方あるまい」
ドーラは、ゲオグストの手前で降下し、着陸寸前にクルリと宙返りして、美熟女の姿で降り立った。
「おっと、いかんの。この姿は、以前チャドスと間抜けな皇太子に会った時に他の者にも見られておる可能性がある。兄ドーンの姿に替わるか。いや、いっそ若い娘の方がよかろう」
ドーラは目を半眼に閉じ、ゆっくり呼吸を繰り返した。
その度に、みるみる若返っていく。
髪の毛は銀色に光り輝いて腰の辺りまで伸び、顔も初々しい美少女となって目を開いた。
「ほほほ。この姿なら、たとえ見咎められても、うまく誤魔化せるわね。おお、理気力を漏らさぬようにせねば、頭隠して何とやら、だわ」
そのまま足早にゲオグストに近づくと、以前にはなかった検問所ができており、係の役人が通行人を一々検めている。
若い娘姿のドーラは、フンと鼻で笑って、懐から通行証を取り出した。
バロード政府発行の、正式なものである。
ところが、簡単に通り抜けられるはずが、担当の役人によって別室に連れて行かれた。
「どういうことでございますか?」
ドーラはまだ猫を被り、怯えた様子を見せて役人に尋ねた。
役人は何故か勝ち誇ったように、上機嫌でペラペラと喋った。
「新しい皇帝陛下は、若くて美しい女が大好きなお方なのだ。おまえを美女軍団の一員に推挙すれば、おれの出世は約束されたようなものさ」
「何という非道なことを言われるのですか! それなら国へ帰りまする! 放してくだされ!」
叫んで抵抗しながらも、ドーラは内心「何という好機!」と喜んだ。
役人の方は、そのようなことを知る由もない。
「抵抗しても無駄なことよ。怪我をしたくなかったら、大人しくするのだ。なあに、おまえもきっとおれに感謝するさ。今のこの国で、一番幸せな境遇になるのだからな。羨ましいくらいだよ」
こうして、若い舞姫の頃の姿になったドーラは、労せずしてゲオグストの皇帝宮に潜入することとなった。
その頃、その新皇帝ゲルカッツェは、宰相のチャドスからある嗜好品を勧められていた。
「この阿芙蓉は、マオールでは貴族の嗜みとされております。ほれ、このように管の先に乾燥させた阿芙蓉を詰め、火を点けて煙を吸うのです」
しかし、ゲルカッツェは顔を顰め、「やだよ!」と拒絶した。
チャドスは苛立ちを押し隠し、猶も食い下がる。
「一度だけ、お試しになってみてくださいませぬか。それでお好みに合わなければ、もうお勧めはいたしませぬ」
すると、どこからか、「お止めなさい」と声がした。




