269 出発の時
サイカを護るために集まっていた軍勢で最後まで残っていた北方警備軍二千名と、戦後に到着した『荒野の兄弟』の五百名が、それぞれの拠点に戻ることになった。
先に出発するのは、『荒野の兄弟』である。
首領のルキッフと闘士ベゼルに、ティルスも加わり、一気にかれら自身の砦まで戻るという。
出発の前夜、ルキッフはゾイアを訪ねて来た。
「明日はバタバタするだろうから、その前におめえと話がしたくてな」
珍しく含羞むように片目で笑う髭面のルキッフに、ゾイアも笑顔で応えた。
「おお、われらも、おぬしたちが出発した後、ここを出ることになる。向こうでまた顔を合わせることもあろう。その時には、また力を貸してくれ」
ルキッフは苦笑した。
「まあ、今回は出遅れちまったからな。すまなかった」
ゾイアは慌てて、「いや、そういう意味ではない」と手を振った。
「わかってるさ。それより」
ルキッフは真面目な顔になって、ゾイアに尋ねた。
「あいつを連れて行って、本当にいいのか?」
ゾイアも表情を引き締めた。
ティルスの話であることは、すぐにわかった。
「うむ。本人も、それを当然のことと思っている。逆に、ここに残れとは言えぬ。また、本来の主人であるウルスラ王女も、自然の流れに任せると言っている」
ルキッフは、フーッと息を吐いた。
「自然の流れねえ。そうだな。悩んでも仕方ねえ。この先、元に戻ることがあれば、その時に考えるしかねえな。ありがとよ」
そのまま行こうとするルキッフをゾイアが止めた。
「もう一人、連れて行くべき者がいるのではないか?」
立ち止まったルキッフは、恍けたような表情を見せた。
「もう一人?」
「ああ。ツイムどののことだ」
何か言いかけたルキッフは、また、長い息を吐いて、上を向いた。
「なあ、獣人将軍。あんたにはわからねえのかも知れねえが、人には過去ってもんがある。いい想い出ばかりじゃねえ。あいつにカリオテの人間かと聞かれ、おれは違うと答えた。まあ、生まれはカリオテだがね。しかし、おれはカリオテを故郷と思ったことはねえし、これから思うこともないだろう。だから、あいつには何も言わず、このまま別れるつもりだ。だが、まあ、おれだっていつどうなるかわからねえ。その時は、あんたから教えてやってくれ」
そう言うと、ルキッフは黒い眼帯を外して見せた。
いつも見えている焦げ茶色の目と違い、隠されていた片目は鮮やかなコバルトブルーであった。
ゾイアは「やはりそうか」と呟いた。
ルキッフは、自嘲するように笑う。
「おれも最近知ったが、一種の病気らしい。子供の頃は、この目のせいで随分苛められたよ。それはいいんだが、おふくろが不義をしたんじゃないかと親戚や近所の大人から責められるのを見るのは耐えられなかった。唯一の救いは、親父が少しもおふくろを疑わなかったことだけさ。だが、おれがいる限り両親に迷惑が掛かると思って、カリオテを飛び出した。それっきりさ」
ゾイアは深く頷いた。
「わかった。このことはわれの胸に留めよう。辛い話をさせて、すまなかった」
ルキッフは「いいってことよ」と笑って眼帯を元に戻した。
そして、翌日。
先に出発した『荒野の兄弟』を追うように、北方警備軍二千も隊列を整え、出立の時を待っていた。
既に馬上にある、ゾイア、ロック、クジュケの三名を、ウルスラ王女、ゲルヌ皇子、ツイムの三名で見送る形となった。
ライナとギータの二人は、サイカ市内の復旧で手が離せない状況であった。
見送る側を代表して、ウルスラが感謝の言葉を述べた。
その目は、早くも潤んでいる。
「本当にありがとう。あなたたちの援けがなければ、今日という日を迎えることはできなかったでしょう」
ロックも少し鼻をすすりながら、「よせやい! 大変なのは、これからだぜ! 会談に行くんだろ!」と照れ隠しのように大きな声を出した。
ゾイアも「そうだな。大役だが、よろしく頼む」と頭を下げた。
ゾイアの横にいたクジュケが不安そうな顔で、ウルスラに聞いた。
「わたくしがお傍にいなくて、本当によろしいのですか?」
ウルスラは少し笑顔になって、「大丈夫よ」と答えた。
「だって、相手はお祖母さま一人らしいわ。本当はわたしも一人で、と思ったけど、そういう訳にもいかないから、ツイムと二人で行ってきます」
「しかし、相手は魔女」
言いかけたクジュケは、口を閉じた。
ウルスラは苦笑した。
「そうかもしれないわね。でも、会談にはサンサルスさまも同席されるし、よくは知らないけど、ヨルムさんも力を持っているそうだから」
「それなら、良いのですが」
まだ納得していない様子のクジュケに、ツイムも苦笑いした。
「まあ、おれでは頼りにならんかもしれんが、タロスの代わりさ」
言ってしまってから、ツイムは、しまったという顔をした。
その話題には皆、敢えて触れないようにしているのだ。
ちょっと深刻な雰囲気になりかけたのを撥ね返すように、ウルスラの顔が上下してウルスに変わった。
「でも、タロスだったら、もっと堅苦しいよ」
ツイムもホッとしたように笑い返す。
「確かに。おれも、最初ウルスさまのお供を命じられた頃は、もっと硬い喋り方でした。それが、タロスと旅をする内に、そういう役目は向こうに任せ、海賊あがりの地金が出てきていました。うむ、そうだ。また原点に戻って、丁寧な言葉遣いにいたしましょうか、王子殿下?」
ウルスもすっかり笑って、「今までの方がいいよ」と答えた。
和やかな空気になったところで、黙っていたゲルヌが口を開いた。
「和平会談も容易ではあるまいが、ゾイア将軍やクジュケ元参与には大切な役目がある。ニノフ王子の創ろうとしている新しい国を、潰されぬように支えて欲しい。その一角が崩れれば、せっかくのバロード包囲網が綻びてしまう。頼むぞ」
自分の名が出なかったことに文句を言おうとするロックに先んじて、ゾイアが笑顔で「畏まった!」と答えた。
ゾイアは笑いながら更に大きな声で、北方警備軍二千名に向かって「出発するぞっ!」と号令をかけたのである。




