25 冬来りなば
見た者が動揺するのは毎度のことであるらしく、マリシは気にする風もなく、話を続けた。
「北方では、生命の歯車が狂っているのです。今、火を噴いたのは蟻地獄ですが、他の場所ではそのようなことはいたしませぬ。蝙蝠やザリガニも、北方のものは特に凶暴です。いや、元々北方に棲んでいたものが、辺境や中原に出て来て弱体化したのがわれわれの知っているノスフェルやガンクなのだとも言われております。それどころか、巨人や小人も、実は先祖は北方に住んでいた普通の人間だという説を唱える学者さえございます」
話を聞くうちに、ウルスは衝撃が少し冷め、質問してみた。
「あのキラキラと光る結晶は何?」
マリシは、速やかに驚愕から立ち直ったウルスに対し、「ほう」と感心した。
「古老の言い伝えでは、あの結晶の森も元は普通の森だったそうです。いつの頃からか、北方の奥地から少しずつ結晶化が進み、この城壁の近くまで迫ったのは数十年前とのことでございます。今でも、あれを盗って金に変えようと北方に侵入する馬鹿者が後を絶ちません。北方には、今言った以上に多彩な動物がおり、しかも、皆獰猛ですので、忽ち生命を落とし、ああしてンザビになってしまうのです」
「でも、人間は住んでるんでしょう?」
マリシは苦笑した。
「それは無論。そのために、われらがこうして備えておるのですからな。城外には北方蛮族が凡そ十二部族、併せて二万人程が住んでおりまする。いずれも勇猛ですが、幸い互いに仲が悪く、時折個別に攻めて来るのを、逐一撃退しておるのです」
「だけど、備えているのはそれだけじゃなくて」
言いかけるウルスを、アーロンが止めた。
「その名を、ここではお口になさいませぬように」
「あ、ごめんなさい」
マリシも表情を引き締めた。
「ウルス王子のおっしゃりたいことはわかっております。それについては常に油断できませぬが、今のところ兆候はございませぬよ」
まさに、その時であった。
マリシの頭の上からヒラヒラと白いものが落ちて来た。ウルスが掌で受け止めると、体温でスッと融けて小さな水滴になった。
「雪かな?」
空を見上げたが、青空が広がっている。風花と呼ばれる気象である。
ウルスは無邪気に呟いたが、大人二人は顔色を変えていた。
マリシは胸壁の手摺りを叩いた。
「凶兆じゃ! 直ちに態勢を整えねばなりません!」
アーロンも大きく頷いた。
「わかりました。わたしもお手伝いします」
ウルスはどうして風花が凶兆なのかわからぬながら、それが口に出すことさえ憚られている白魔に関するものであることは察した。
「ぼくも何か手伝います」
マリシはウルスの健気さに打たれたように、一瞬、祖父のような笑顔を見せたが、強く頭を振った。
「いけませぬ。こうなっては、一刻も早くこの地を離れることです。後ほどゆるりとご説明するつもりでしたが、早船でスカンポ河を下るのです。そうすれば、一気に安全な場所に辿り着けます」
「安全な場所?」
「はい。沿海諸国です」
「おぬしの探す王子は、どうやら北長城に入ったようじゃ」
ギータがゾイアにそう言ったのは、ウルスが風花を見た三日後であった。
試合の後、ライナのところよりこちらの方が居心地がいいと、ゾイアとロックはギータの家に居候していた。もっとも、小人族用の家具が多く、特に大柄なゾイアには使い勝手が悪いため、金貨一枚を叩いて寝具や椅子を買い足していた。
食後の腹ごなしがしたいと、薪割りの手伝いをしていたゾイアは、持っていた鉈を置いて、ギータに聞き返した。
「北長城とは?」
「うむ。以前説明したように、辺境の北に人外の世界がある。北方と呼ばれる地域だ。わしの先祖が住んでいたともいうが、わしも実際に見たことはない。そこに住む蛮族や猛獣の侵入を防ぐため、千五百年前に絶頂期の古代バロード聖王国が辺境伯に命じて造らせたものだ。以来、中原諸国は無論のこと、辺境伯からも半ば独立した存在として北方警備軍一万が常駐しておる。何度か大規模な侵略があったが、五百年前、北方蛮族の全部族が一斉に攻めてきたことがあり、この時は辺境伯領がほぼ壊滅した。その後、中原諸国の大半が協力してスカンポ河を越え、漸く撃退したそうだ。世に言う『白魔の乱』だ」
「ドゥルブ?」
ギータは苦笑した。
「さすがのわしも良くは知らん。なんでも、北方の奥深くにいる謎の存在で、普段は隠れておるが、数百年に一度現れるらしい。五百年前も、それを畏れた蛮族が長城の中まで逃げ込んだことが発端と聞いている。ん、どうした?」
ゾイアの目が緑色に光り、何かに耐えるようにグッと歯を食いしばっている。
ちょうどそこへ、真っ赤な林檎の実を齧りながら裏木戸から帰って来たロックが、驚いて声を掛けた。
「おっさん、大丈夫かい?」
「あ、うう、だ、大丈夫だ」
獣人化には至らず、何とか意志の力で情動を抑え込んだようである。
ギータが「うーむ」と唸った。
「エイサの時もそうだったが、何か記憶に引っ掛かるようだな。おぬしは、いったい何者なんじゃ?」
今度はゾイアが苦笑する番だった。
「それがわかれば苦労はない。もう大丈夫だ。だが、ウルスがそこにいるというなら、明日にでも出発しよう。長い間世話になった」
「そう長くもなかったさ。剣術の稽古もためになったし、何より生ける伝説を目の前で見られたしな。わしはいつまで居てもらっても構わんが、おぬしの大事な役目とあらば、喜んで送り出そう。ただし、まだ長城におるかどうかは、わからんぞ」
「それでもよい。少しでも手掛かりがあるなら、行ってみる価値はある。ところで、ロック、おまえはどうする?」
ロックはニヤリと笑った。
「行くに決まってるじゃん。おいらがいなきゃ、おっさんは迷子になっちまう」
三人で声を上げて笑った。




