239 サイカ包囲戦(7)
ゾイアから大して怖ろしい敵ではないと評されたバロード軍一万は、漸く商人の都サイカの包囲を完了させつつあった。
これ程遅れたのは、河川や丘陵などの自然の凹凸が極端に少ない、平坦過ぎる緩衝地帯に軍を展開しているためである。
乾燥して固い地面に塹壕を掘り、拠点となる櫓を建てながらの行軍は、工兵を多数引き連れて来ていても遅々として進まない。
軍を率いている立派な口髭を蓄えたガネス将軍は、さすがに焦りを覚えていた。
「ロム! サイカ側からの返答はまだか!」
ガネスは死んだ魚のような目に苛立ちを滲ませ、副官のロムを怒鳴りつけた。
バロード軍がサイカに接近する前から、ウルス王子を、その従者タロス共々引き渡すよう、再三サイカに要求しているのである。
その使者の役目は、金髪碧眼の典型的なバロード人であるロムが担っていた。
「はっ。未だ何の回答もございません」
自分の落ち度であるかのように項垂れるロムに、八つ当たりで怒りをぶつけようとして、ふと、ガネスは自分の空腹に気づいた。
「そう云えば、糧食はどうなっておる?」
ロムは、改めて頭を下げた。
「ご報告が遅れまして、申し訳ございません。持参しました兵糧食は凡そ二十日分残っておりますが、水が数日中に底を突きます。また、馬の飼い葉も後十日程かと」
会議の席でゾイアが指摘したとおりであった。
バタバタとバロンを出発したこの軍は、兵站を確保せぬまま、遠征して来ているのである。
「阿呆!」
激昂したガネスはそう叫ぶなり、ロムを足蹴にした。
「ああっ!」
仰向けに倒れたロムの腹を、ガネスは更に踏みつけた。
「よくも抜け抜けと、己の不手際を他人事のように言いおって! 籠城する側より先に飢えて渇く包囲軍など、もの笑いの種だ! もう待てぬ! 総攻撃だ!」
本来、兵站にまで気を配るのが将軍の務めであり、責任転嫁もいいところである。
だが、ロムは自分の名誉より、別のことを言った。
「し、しかし、ウルス殿下が」
「構わぬ! 固より、斟酌せずともよいと言われておるわ! 準備せよ!」
「御意」
屈辱に唇を噛みしめながらロムが出て行くのと入れ違いに、斥候が駆け込んで来た。
「申し上げます! サイカの門が突如開き、武装した騎兵凡そ百騎が、猛烈な勢いでこちらに突進して来ております!」
その報告に、ガネスは寧ろ喜び勇んだ。
「好き鴨じゃ。一万の軍勢に僅か百騎で立ち向かうとは、余程の愚か者だな。よし、直ちに応戦せよ!」
斥候は頭を振った。
「いえ、それが、既に応戦しておるのですが、百騎の先頭を走る武将に次々と斃され、進撃を止めること能わず、間もなくこの近くまで突き進んで参ります!」
ガネスは大きな勘違いをしていた。
一万の軍勢は一箇所に集中しておらず、薄い膜のようにサイカ周辺を包んでいる。
そこに、鋭利な錐のようなものが突き刺されば、簡単に破れてしまう。
直りかけたガネスの機嫌は、みるみる悪くなった。
「馬鹿なことを申すな! そいつは、いったい何者だ!」
「はっ。見た者の話では、ウルス王子の従者タロスによく似ておるとのこと」
「ならば、タロスであろう!」
「それが、目と髪の色が違っているそうで」
「目と髪の色ぐらい、見間違えて」
言いかけたガネスの口が開いたままになった。
その視線の先に、騎乗しながら両手に大剣を持った男が、群がって来る敵を薙ぎ倒しながら、凄まじい速さで迫って来ているのが見えたのである。
「そんな、まさか……」
実は、タロスに似た男の話はガネスも知っていた。
ワルテール平原では擦れ違ってしまったが、ニノフと同盟関係にある北方警備軍のゾイア将軍である。
顔貌だけでなく、体格も双子かと思うくらい似ており、武芸の腕はタロスを凌ぐ程だと云う。
ワルテール平原での会戦の後、これといった噂は聞かなかったが、当然、ニノフの許にいるものと思っていたのである。
だが今、まるで重さを感じていないかのように両手の大剣を振るっている姿を見れば、ゾイア将軍以外の人間では在り得なかった。
ガネスが呆然と見守るうちに、ゾイアはもう目の前まで来ている。
ゾイアは息も切らしておらず、大剣の一本をスッとガネスに向かって突き出した。
「おぬしがバロード軍の将軍であるか?」
無礼極まりない問い掛けであったが、気を呑まれたガネスは反射的に頷いてしまった。
ゾイアは、「ほう」と言いながら笑った。
「ならば、早々に囲みを解いて帰国せよ」
衝撃から醒めたガネスは、カッと頭に血を昇らせた。
「ふ、ふざけるな! 高が百騎で、一万の軍に勝てるとでも思うたか!」
ゾイアはニヤリと笑った。
「われも、そう思う。よって、援軍を引き連れて戻る故、悪く思うな」
「何を」
するのかと訊くよりも早く、ゾイアは馬ごとガネスの頭上を跳び越えた。
本能的に危険を察知したガネスが、慌てて避けた横を、残りの百騎が馬蹄を轟かせながら通り過ぎて行ったのである。




