236 サイカ包囲戦(4)
プシュケー教団の聖地シンガリアに定住しているのは、教団上層部の僅かな人間だけである。
常に入れ替わっている一般の信者とは別に、かれらは本部と呼ばれる木造の大きな建物に住んでいる。
その本部の中を、教団の制服と思しき詰襟の服を着た青年が歩いていた。
奥まった一室に到着すると、「よろしいでしょうか?」と声を掛ける。
中から若い男の声で「構わぬ」と返事があった。
青年が戸を開けると、思いの外狭い室内に質素な机が一つだけポツンとあった。
女のような長くサラサラした銀髪をした年齢の見当がつかない男が、何か書きものをしている。その長い髪から出ている耳の先が少し尖っていた。
制服の青年が「ご報告がございます」と告げても、黙って頷くのみであった。
漸く書きものの手を止め、男はフッと顔を上げた。
この世のものとも思えぬような美しい顔をしている。
教主サンサルスであった。
「おお、すまぬ。丁度自省録が佳境に差し掛かり、夢中で書いておった。ん? どうした? 心配事か?」
青年は、申し訳なさそうに頷いた。
「中原西南部の信徒より報告がございました。商人の都サイカに向けてバロード軍一万が進軍中にて、間もなく包囲するであろうとのことでございます」
サンサルスは、煙るような淡い紫の瞳で遠くを見つめた。
「サイカと云えば、今ウルスラ王女が居る場所ですね」
サンサルスの意識の中では、ウルスよりもウルスラの印象の方が強いのであろう。
「はい。それだけではございません。クジュケさまもおられるようです」
青年に教えられて、サンサルスは「ほう」と驚いた顔をした。
「クジュケとは随分会っていませんが、まさかウルスラ王女と一緒とは。昔、かれに教団を継承させようかと考えたこともありましたが」
クジュケは、サンサルスの曾孫に当たるのである。
サンサルスは青年に「報告ありがとう」と優しく労いの言葉をかけると、表情を引き締めて命令を下した。
「直ちに援軍の手配をしなさい、ヨルム。現在シンガリアにいる者だけでなく、途中で人員を合流させ、最大規模で向かうのです」
「はっ!」
「ヨルム、必ずサイカを救うのですよ」
ヨルムと呼ばれた青年は姿勢を正し、神への忠誠の言葉を唱えた。
「イーラ、プシュケー!」
そのサイカでは、ここを出発してからエイサでゾイアを発見するまでの経緯を、クジュケが話し終えたところであった。
衝撃的な内容に一同が黙り込む中、ギータが「聞きしに勝るとは、このことじゃな」と唸った。
他の者はまだ茫然としていたが、ウルスラだけは驚きよりも喜びの表情になっている。
「やっとゾイアに逢えるのね。わたしを覚えているかしら?」
クジュケの長い話に痺れを切らしていたらしいロックが、「そこなんだ!」と急に大きな声を出した。
「そのために、タロスさんの協力が必要なんだよ! 頼む! おっさんを元に戻してやってくれ!」
タロスが答える前に、ギータが「それは如何なものかな」と口を挟んだ。
「最初の出会いの時、タロスは記憶を失っておる。幸い、それは奇蹟的に回復したが、もう一度奇蹟が起きる保証はないぞ」
無邪気に喜んでしまったウルスラは、「そうだったわ。ごめんなさい」とタロスに詫びた。
だが、既に決心していた様子のタロスは笑顔で答えた。
「どうか、お気になさらずに。たとえ危険があっても、それはわたし一人のこと。今の戦況を考えると、ゾイア将軍の復活の方が大事です。喜んで協力いたしましょう」
心配そうな顔のライナが声を掛けた。
「サイカが包囲されたのは、あんただけのせいじゃない。一人で責任を感じることはないよ」
「ありがとうございます。責任も無論ですが、これがわたしにしかできないことも確かですから」
ゲルヌ皇子は勿論、ツイムもゾイアには会ったことがないため、どう判断していいかわからず、成り行きを見守るしかなかった。
ロックは「すまねえ」と珍しく殊勝にタロスに頭を下げた。
タロスは「気にすることはない」と笑い、改めてクジュケに「わたしの方はいつでも」と告げた。
クジュケは頷き、皆にも聞こえるよう少し声を張って説明を始めた。
「正直に申し上げて、わたくしにも正確な仕組みがわかっている訳ではありません。ただ、時間が経てば経つ程、元に戻すのが困難になるのは間違いないでしょう。一刻も早く、できれば今すぐに始めたいと思いますが、よろしいでしょうか?」
最早、誰からも異議は出なかった。
「それでは、この会議室の隣の大広間をお借りしたいと思います。ライナどの、すみませんが、中の備品などは撤去させていただきますよう、お願いします。一定の距離さえとっていただけば、見ていただく分には構いません。では、タロスどの、こちらへ」
クジュケに導かれるまま、タロスは隣の大広間の真ん中に立った。
ライナが呼んだ男衆が邪魔になりそうなものを、手早く片づけた。
ウルスラなど他の者は、遠巻きにそれを見ている。
準備が整ったところで、タロスがやや緊張した面持ちで、クジュケに尋ねた。
「わたしは、どのようにすれば?」
「取り敢えず力を抜いてください。はい、そうです。いいですね。では、始めましょう。皆さん、もう少し下がってください。特にロックどの」
クジュケは、もう一度大広間の中を確認してから、何度か深く息をした。
気持ちが落ち着いたところで、懐から小さな黒い革袋を取り出す。
その口を閉じている紐を弛めると、口を開いた。
「さあ、ゾイアさま、外へ出てください!」
革袋の小さな口から、スーッと光るものが現われ、口から出た途端丸まって林檎くらいの球体になって空中に浮いている。
クジュケは、その光る球体が人間であるかのように話し掛けた。
「ゾイアさま、お待たせしました。目の前にタロスどのがおられます。説明もいたしました。どうぞ、お願いします!」
球体は光を明滅させると、スーッとタロスに向かって飛んだ。
タロスは、目を閉じた。
球体がタロスの胸に吸い込まれるように消え、タロスの身体全体が光り出す。
と、光るタロスの身体から、再び光だけが離れ、空中で丸まって球形に戻った。
その光の球体に、ツーッと縦に線が入って二つに割れ、今度はツーッと横に線が走って四つとなり、後は目まぐるしいほど細かく分裂して行った。
同時に全体が大きくなり、上下に伸びて次第に人型になってきた。
そこに出現したのは、タロスの姿をそっくりそのまま写し取ったかのような人間の姿であった。
但し、髪の毛は金髪ではなく、ダークブロンドになっている。
パチリと目が開くと、瞳の色もコバルトブルーではなく、アクアマリンである。
それは、正にゾイアの姿であった。
「こ、ここは?」
ところが、その後ろから、ドタッという、タロスが倒れる音が聞こえてきた。




