235 サイカ包囲戦(3)
商人の都サイカを包囲しつつあるバロード軍一万に対して、ウルスラは自分たちには人質としての価値がないのではないかと悲観したが、ギータはその見方を否定した。
「勿論、親子や家族としての情もあるじゃろ。たとえ今は怒りにわれを忘れておっても、おまえさんの身に何かあれば、お父上もお祖母さまも一生後悔することになろう。しかし、それとは別に政治的な問題があるんじゃ」
タロスがハッと顔を上げたが、沿海諸国の出身で比較的自由な立場にあるツイムの方が先に尋ねた。
「政治って、バロードの中のことかい?」
ギータは、皺の多い顔をクシャッと縮めるようにして頷いた。
「そうじゃ。バロードは今、異民族支配に近い状況になっておる。カルス王の側近は蛮族によって占められ、国内に圧政を敷いている。大部分の国民は、大っぴらには言えないながら、不平不満を燻らせておる。そうした中、国外にいる二人の王子の存在は、密かに国民の希望の星となっているんじゃ」
ウルスラは、喜びと悲しみが入り混じったような複雑な表情で聞いている。
ギータは、そんなウルスラに微笑みかけ、説明を続けた。
「同時に、蛮族による支配を跳ね返そうと、『自由の風』という抵抗運動も起きている。今回の包囲軍は全員バロード人らしいではないか。その中には『自由の風』の者が、何人か含まれている可能性がある。かれらはまず何よりも、おまえさんの身の安全を優先してくれるはずじゃよ」
ギータの話で、座の空気が少し和みかけたところに、異議を唱える者がいた。
ガルマニア帝国から逃げて来たゲルヌ皇子である。
額にかかる真っ直ぐな赤毛を指でかき上げ、大人びた言葉で喋りだした。
「だとしても、厳しい状況に変わりはない。こちらは三千、向こうは一万。しかも、こちらには援軍の当てもない。当然、交通が遮断されれば食料も入って来ぬ。多少の備蓄はあろうが、一般市民に苦しい生活を強いることになる。家臣だけの籠城とは違うのだ。それ程長くは保たん」
これにはライナが苦笑した。
「わたしが文句を言わせないよ、と言いたいとろだけど、確かに自由な気風の市民に窮乏生活は無理だろうね。うーん、一ヶ月が限度かねえ」
シンと静まったところで、再びツイムが口を開いた。
「とにかく、おれとタロスで傭兵たちを束ねてガッチリ護るとしても、こちらから打って出る程の兵力の余裕はないな。どうしたって、援軍なしでは無理だぜ。なんか方法はないのか?」
ツイムはギータに向かって訊いたのだが、責任を感じているらしいタロスが、コバルトブルーの瞳に決意を漲らせて答えた。
「わたしが囲みを突破して、ニノフ殿下の許に頼みに行こう」
ツイムは呆れたように首を振った。
「おいおい、おれの話を聞いてたかい? おれ一人じゃ無理だよ。タロスには居てもらわなきゃ、とてもサイカを護り切れないよ」
ギータも「そうじゃな」と頷いた。
「それに、たとえ包囲を突破できたとしても、今ニノフ殿下のおるクルム城はあまりにも遠い。タロスが往復する間に、わしらは飢えて降伏せざるを得なくなるじゃろう。瞬間的に移動できる魔道師でなければ、とても無理じゃ」
一同が黙り込んでしまった、その時。
話し合っている部屋の奥に、ポッと光る点が現れた。
いち早くウルスラが気づき、声を上げた。
「あっ、これは!」
点はみるみる膨らんで光る球体となり、天井に届くかと思われる程大きくなったところで、パチンと弾けた。
中から、魔道師のマントを羽織ったクジュケと、旅姿のままのロックが出現した。
クジュケは銀色の前髪を揺らしながらフッと笑顔を見せ、「お久しぶりでございます。そろそろわたくしの出番かと存じまして」と少しお道化たように挨拶した。
一方のロックは何故か焦った様子で、「タロスさん! お願いがあるんだ!」と叫んだ。
突如二人が戻って来て、テーブルに座っている一同驚いていたが、名指しされたタロスは一層戸惑っている。
「わたしに願い?」
ロックの横で、クジュケが苦笑している。
「わたくしから説明しましょう」
一方、サイカがバロード軍の攻撃対象にされたことは、周辺の自由都市にも衝撃を与えていた。
特に、『自由都市同盟』への参加を考えていた都市の動揺が大きかった。
援軍を出すどころか、サイカに近づくことさえ怖れ、殻に閉じ籠るように門を閉ざした。
そのような中、援軍を出そうという動きは、寧ろ遠方から起こった。
一つは、サイカの遥か北、山岳地帯に程近い『荒野の兄弟』の砦である。
首領のルキッフは、一人で格闘の練習に励むベゼルを訪ねた。
「おう、精が出るな」
ベゼルは、一纏めにされたうねうねと波打つ癖のある長い黒髪をバサッと上げると、黙って汗を拭った。
あまりの無愛想さに、ルキッフは笑い出してしまった。
「おいおい、仮にもお首領が声をかけてるんだぜ。返事ぐらいしても罰は当たるめえ」
漸く汗を拭き終え、ベゼルはルキッフの方に向き直った。
「何か用か?」
ルキッフは少し真面目な顔になった。
「ふん。まあ、いいや。おまえに一言教えといてやろうと思ってな。サイカがバロード軍一万に包囲されかけてるそうだ」
「ほう、それで?」
「サイカには今、タロスがいるらしい」
ベゼルは何か言いかけて、フッと横を向いた。
そのまま、ボソリと呟くように言う。
「おれには、関係のない話だ」
タロスが記憶を失い、ティルスとしてこの砦で過ごした時、ベゼルは親友であった。
しかし、タロスとしての記憶が戻ったのと引き換えに、ティルスの記憶を無くしてしまったのである。
事情を知るルキッフは、苦笑した。
「なら、いいんだ。実は援軍を出そうと思ってる。タロスの件もあるが、サイカには情報屋の知り合いも多いからな。おまえも行きたいんじゃないかと思って、ちょっと声を掛けてみただけだ。忘れてくれ」
そのまま行こうとするルキッフに、ベゼルは俯いたまま、「おれも行くよ」と告げた。
援軍を出そうとしているもう一箇所は、山岳地帯を更に西へ進んだベルギス大山脈の麓にある、プシュケー教団の聖地シンガリアであった。




