232 駆け引き(7)
無敵と思われたサンジェルマヌスの潜時術であったが、旅の舞姫の姿をしたドーラは、突如動きを取り戻した。
しまったという顔のサンジェルマヌスに、ドーラは嫣然と微笑んで見せた。
「先日あなたとお会いしてから、どうも物忘れがひどくてね。何故なのかと考えているうちに、忘却の指輪のことに思い至りましたわ。調べてみたらすぐに見つかったけれど、盗聴の働きもしているようだったから、少し細工をして戻して置いたの。普通の状態なら何も起きないけど、次に忘却の光を出したら自ら切れるようにね。それともう一つ。あなたのお得意の潜時術が使われたら、時の狭間に同化するよう、この魔剣に命じていたのよ」
ドーラが少し胸を開けて見せると、全体に黒い色調の装飾が施された短剣が見えた。
これが『アルゴドーラの魔剣』であろう。
サンジェルマヌスは、悪戯を見つけられた子供のように照れた笑いを浮かべていた。
が、次の瞬間、背中を撫でていたウルスラの身体を抱えると、老人とは思えぬ怪力で放り上げた。
「それを掴むんじゃ!」
ウルスラの飛ばされた先の空中には、細長い革袋が浮かんでいる。
一瞬遅れてドーラが掌を突き出し、「させるものか!」と叫びながら見えない波動を迸らせた。
ウルスラが咄嗟にそれを掴んだのは、サンジェルマヌスの言葉を理解した訳ではなく、いきなり空中に放り投げられて反射的に手すりのようなものを求めたからであったが、ドーラの波動が届くより紙一重で早かった。
と、先程カルボンを椅子ごと吹き飛ばした波動が、ウルスラの手前で止まり、そっくりそのままドーラに跳ね返された。
ドーラは堪らず、カルボンとは反対側の壁に背中からドンとぶつかった。
「うっ!」
一方のウルスラは、革袋を掴んで空中に浮かんだままであった。
自分が何をしたのかもよくわからぬらしく、唖然としてドーラを見ている。
ウルスラの身体を投げたサンジェルマヌスの方は、さすがに息を切らせていたが、ウルスラに向かって「そのまま、そのままでいるんじゃ」と漸く声を絞り出した。
「はい。でも」
戸惑っているウルスラに、壁に押しつけられたまま身動きできない状態であるらしいドーラが、怒りを押し殺したような声で「その手を離すのだ、わが孫娘よ」と命じた。
そう言ううちにも、美少女の姿であったドーラの顔がみるみる老けて、美熟女に変わっていく。
まだ息の荒いサンジェルマヌスが、「ならん!」と叫んだ。
「今手を離せば、おまえもわしも生命はあるまい。『アルゴドーラの魔剣』のせいで、ドーラもカルスも倫理観が狂っておる。今後、おまえが『アルゴドラスの聖剣』を持ちたくないならそれでもよいが、せめて魔剣の消滅を命じてくれ!」
ドーラが「馬鹿な真似はするな!」と叫び返したが、ウルスラの決断は早かった。
「『アルゴドラスの聖剣』に命じます! おまえの作りし『アルゴドーラの魔剣』を消滅させなさい!」
ドーラの胸元から黒い短剣がスッと上に引き出されたかと思うと、ボフッという音と共に黒い煙となって消えた。
「あああっ、なんということを!」
ドーラは悲痛な叫びを上げたが、すぐにサンジェルマヌスに憎しみの籠った目を向けた。
「おのれ老いぼれ! よくもよくもわが魔剣を! この恨み、忘れぬぞ!」
サンジェルマヌスは悲しそうにゆっくり首を振った。
「わしも、このような終わり方をしたくはなかった。しかし、初恋とは、所詮実らぬものよな」
「ふざけるな! 二度とそのような減らず口を」
猶も言い募ろうとするドーラに向かって、サンジェルマヌスがパチンと指を鳴らすと、再び蝋人形のように固まった。
「魔剣さえなければ、わしの潜時術はまだまだ有効ということじゃな」
「もう聖剣から手を離しても良いでしょうか?」とウルスラに尋ねられたサンジェルマヌスは、「さてさて、少し待ってくれ」と周囲を見回した。
ドーラは悪意のある目でこちらを睨んでおり、カルボンは真っ赤な目を光らせている。
「うーむ。このまま時間が動き出すと、また修羅場じゃな。おまえに二人を転送してもらうしかあるまい」
「ええっ、できません!」
自分自身と自分が接触している人間を、離れた場所や違う時間に移動させる跳躍と異なり、転送とは、自分は動かずに人や物を別の場所や時間に運ぶ術である。
自分が留まるということは、途中で理気力を追加投入できないため、格段に大きな力を持っていないとできないのだ。
「勿論普段のおまえにはできんじゃろう。たとえ普段できたとしても、時の狭間の中ではできまい。しかし、聖剣が使える今なら、児戯に等しいはずじゃ。幸い、潜時術を使って、バロードの聖王宮とヤナンの地下神殿には座標を設定してある。まあ、時間は現在のままでよいじゃろう。場所の座標だけ数字を伝えるから、聖剣に命じてくれ」
ウルスラは、もう一度ドーラとカルボンの顔を見直して、躊躇っている場合ではないと頷いた。
「わかりました。お願いします」
サンジェルマヌスが告げる長い数字の羅列を復唱し、ドーラを聖王宮に、カルボンを地下神殿へ、それぞれ転送した。
それを確認すると、サンジェルマヌスは表情を引き締めてウルスラに問うた。
「改めて聞こう。このまま聖剣を持ち続けるつもりはないか?」
ウルスラには、もう迷いはなかった。
「はい。今のわたしには、とても使い熟せません。あまりに大きな力に振り回されて、正しい判断ができなくなるでしょう。そうなれば、聖剣も魔剣と同じです」
サンジェルマヌスは莞爾と笑った。
「好き哉! さすがわしが見込んだ王女じゃ。然らば、時が熟すまでわしが預かろう。但し、わしは今後、地の果てまでもドーラに追われることとなる。おまえが聖剣を必要とした時に、すぐに渡せぬかもしれぬぞ。よいか?」
ウルスラも笑顔で答えた。
「構いませぬ。それに、魔剣も消滅して、当面の危機は去りましたから」
ウルスラは、空中の革袋から聖剣だけを取り出してサンジェルマヌスに渡した。
「うむ。そうじゃな。それから、無用の混乱を避けるため、時の狭間でのおまえの記憶だけは残して置く。では、時を戻すぞ。さらばじゃ」
だが、二人は知らなかった。
新バロード聖王国の一万の軍勢が、このサイカに近づきつつあることを。




