210 説得
灰色のコウモリがヒラヒラと飛んでいるここは、バロードの廃都ヤナンである。
崩れ落ちた古い建物の傍で、ノスフェルはクルリと宙返りすると、銀髪の妖艶な美熟女に変わった。
カルス王の母ドーラとしての姿である。
「人が住んでいた跡があるのう。ガイ族が入植していたと云うが、それだけとは思えぬな。やはり、カルボンは一旦ここへ潜んでいたのか。だが、今は」
ドーラは建物や生い茂る樹々を透かすように目を細めた。
「今は誰一人おらぬな。既に国外に逃げたか。ふーむ。しかし、この妖しげな気配は何じゃ? ヤナンといえば、バロンに遷都した後も、魔道神教徒が隠れ住んでいたと聞いたが」
訝るドーラの手に指輪が現れると、一瞬、パーッと目が眩む程に光った。
その光が消えると、ドーラは夢から醒めたような顔で「気のせいか」と呟き、その場で宙返りしてノスフェルの姿に戻り、飛び去った。
すると、どこからともなく、「敵に塩を送ることになるが、仕方あるまい」という老人の声が聞こえた。
その遥か西の辺境伯領。
バロードの現状を探るためにケロニウスが出発したのと入れ違いに、クルム城に居るニノフを訪ねて、そのバロードから逃げ出したと思われている人物がやって来た。
元のバロード共和国総裁、カルボン卿である。
執務室として借りている部屋でその訪問を知らされたニノフは、耳を疑った。
「真実にカルボンさまですか?」
思わず聞き返してしまったが、伝えに来たクルム城の門番も困った顔になった。
「はあ。ご本人さまがそう仰られておりますが」
「ああ、すみません。お通ししてください」
ホッとした様子の門番が迎えに出て行った後、ニノフは立ち上がって窓の外を見た。
城主であるアーロンが、追われる身のニノフを気遣って、窓から直接門の外が見える部屋を提供してくれていたのである。
距離はあるものの、削いだように頬の痩けた陰気な顔は間違いなくカルボンであった。
乗っていた馬から下り、門番に手綱を渡している。
共和国がカルス王に破れた後、共に国外に脱出した上司と部下ということになるが、そのカルス王との関係修復を図ろうとしているニノフにとって、今一番会いたくない相手である。
「二人きりは拙いな」
そう呟くと、近くに待機していた衛兵に、副将のボローを呼びに行かせた。
しかし、ボローより早く、カルボンが部屋までやって来た。
「元気そうだな」
柄にもない世辞を言いながら、カルボンは油断なく部屋の中を見回している。
「お久しぶりでございます。総裁、どうぞお掛けください」
ニノフに勧められる迄もなく、カルボンは、先日ケロニウスが座っていた応接用の柔らかい椅子に向かっている。
二人が向かい合わせに座ったところへ、ボローがやって来て、何も言わずニノフの後ろに立った。
髭面のボローがそうしていると、ニノフの守護神のようである。
以前のカルボンなら、それだけで多少気圧されていただろうが、今は何故か自信に満ち溢れているようだ。
ここにケロニウスかクジュケがいれば、カルボンの異変に気づいたであろうが、生憎二人ともいなかった。
「何はともあれ、互いに無事で良かったな、ニノフ。祝杯を上げてもいいくらいだと思うぞ」
カルボンの真意を測りかね、ニノフは苦笑するしかなかった。
「首都バロン陥落の報せを受けたものの、あまりの事態の急転に戸惑い、そのまま国外へ出てしまいました。それが良かったのかどうか、今でもわかりませぬ。総裁こそ、よくぞご無事で」
本来なら、救いに行かなかったことを詫びるべきであったろう。
だが、首都防衛の名目で殆どの戦力を温存され、最小人数で前線に行かされたニノフにしてみれば、謝る気持ちなど更々なかった。
ところが、カルボンはいつものように怒る気配もなく、軽く頷いただけだった。
「ふむ。思ったより悪運が強かったようだ。尤も、この先わし一人ではどうにもならぬ。おまえの機動軍がそっくりそのまま残ってくれたことが、何よりの幸運だ」
ニノフは、額に嫌な汗が出るのを感じた。
「どういう意味でしょう?」
「決まっておろう。バロードを奪還するのだ」
これには、後ろで聞いていたボローが黙っていられず、反論した。
「お言葉ですが、とても無理です! 戦力が違い過ぎますよ!」
カルボンは、ボローをジロリと睨んだ。
「おまえと話してはおらん。わしはニノフに言っているのだ」
ニノフは首を振り、「おれ、いや、わたしも無理だと思います」と応えた。
「現在得ている情報では、バロードは正規軍四万に加えて蛮族軍一万を擁し、更に兵を募って増強しつつあります。しかも、例の火を噴く鉄の巨人があります。機動軍は僅かに五千。勝負になりませぬ」
その言葉を待っていたように、カルボンはニヤリと笑った。
「心配せずともよい。こちらには、これがある」
と、言いつつ、懐から短剣のようなものを取り出した。
黄金と宝石で見事に装飾されている。
「アルゴドラスの聖剣だ」
ニノフもボローも聖剣に目を奪われたが、その一瞬、カルボンの目は真っ赤に光っていた。




