209 老師の決意
ブロシウス死すの報は、当然、ルキッフと同盟関係にある辺境伯領のニノフたちにも伝わって来ていた。
クルム城に、謂わば間借りしている状態のニノフの軍は、『暁の軍団』の砦がある暁の女神という名の土地に拠点を移すべく、準備を進めているところであった。
その最中、城内の一室を執務室として借りているニノフの許へ、老師ケロニウスが訪ねて来たのである。
ゾイアを捜しに行ったクジュケが不在の間、已むを得ず参謀的な役割を担って多忙なはずのケロニウスであったが、今日は悲痛な表情をしている。
「どうされました、老師? ああ、取り敢えず、お掛けください」
ニノフは仕事の手を止めて机から立ち上がり、応接用の柔らかな椅子をケロニウスに勧め、自分もその向かい側に座った。
「お忙しいのに申し訳ござらん、ニノフ殿下」
詫びるケロニウスに、ニノフは笑顔で軽く手を振った。
「いえいえ。老師には無理難題をお引き受けいただき、いつも感謝いたしておりますよ。例の件ですか?」
ニノフは、あからさまな言い方を避けたが、ケロニウスは悲しげに頷いた。
「はい。道を踏み外した兄弟子ブロシウスのことでございます。魔道師の身でありながら軍師となることすら如何なものかと思っておりましたのに、ゲール皇帝を唆して大恩あるエイサを焼き討ちさせ、剰え、そのゲールを弑して自らが皇帝になるなど言語道断、いずれ天罰が下るであろうと思っておりました。わしと共に、中原に平和を齎したいと願っていたはずの兄弟子が、何故このような態に」
ブロシウスを糾弾するというより、その行いを止められなかった自分を責めているようであった。
ニノフの顔が上下し、瞳の色が変わると、ケロニウスに向けてスッと手を翳した。
「お可哀想に」
「おお、ニーナどのか。すみませぬ。愚痴を零しに来たようなことになっておりました。無念の想いはございますが、もう済んだこと。生きておるわしらは、この後のことを考えねばなりませんでした。ありがとうござりまする。元気が湧いてきましたわい」
その言葉どおり、ケロニウスの表情がすこし明るくなった。
ニーナは手を引っ込めて、顔を上下させた。瞳の色がコバルトブルーに戻る。
「この後のこと、ご意見をお聞かせください、老師」
冷静なニノフの声に、漸くケロニウスも普段の落ち着きを取り戻した。
「畏れ入りまする。意見というほどでもござりませぬが、わしなりに現状を考えてみました」
まず、イサニアン帝国は完全に消滅するでありましょう。
ブロシウスを支えていたガズル将軍は討ち死にし、もう一人のアンスタンチヌス将軍は開戦直後に早々と投降した由。
生き残った兵士たちは散り散りに逃亡し、帝国そのものが蜃気楼のように消えてしまいました。
一方、ブロシウスの首級を獲った皇太子ゲルカッツェの声望は一気に高まっております。
まあ、所詮、宰相チャドスの傀儡でしょうが。
それよりもわしが気になるのは、その緒戦で活躍したという竜騎兵のことです。
その数、五千騎。となれば、大蜥蜴五千匹でございます。
聞くところによれば、大蜥蜴の繁殖力は凄まじく、二三年で倍に殖えるとか。
今後、大きな脅威となりましょうな。
場合によっては、更にチャドスの母国マオール帝国から軍事援助があるやもしれませぬ。
が、無論、ガルマニアの国内にはチャドスに対する抵抗勢力もあって、その筆頭は元の皇太子ゲーリッヒでございます。
これから、この男がどう動くのか、注視する必要があるでしょう。
さて、ブロシウスの謀叛からその死に至る一連の動きを、裏で糸を引いていたのは勿論チャドスでしょうが、もう一人、申し上げ難いことながら、バロードのカルス王も左様でございましょう。
それらしい情報も多少入っておりますしの。
わしらにとっては、遠いガルマニアよりも、寧ろ、こちらが心配です。
果たして、カルス王の本心がどこにあるのか。北方から連れて来たという謎の女魔道師とは、いったい何者なのか。
やはり、直に会ってみるしかありますまい。
わしが今日、ご多忙な殿下のお邪魔をしましたのは、そのお許しを得るのが一番の目的なのです。
どうかこの老体に、殿下の母国への使者を命じてはくださらぬか。
ニノフはケロニウスの言葉を噛みしめるように聞いていたが、一度天井を見上げてから、笑顔で頷いた。
「いずれ、エオスに拠点を移す前に、バロードへの交渉をお頼みせねばと思っておりました。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
「おお、それでは、早速」
すぐにでも出発しそうなケロニウスを、ニノフは少し表情を引き締めて、「お待ちください」と止めた。
「今はもう、理想に燃えていた昔の父ではありません。強か、というより、腹黒いとすら思えます。決して、ご油断召されぬように」
「ははっ、肝に銘じまする!」
そのバロードでは、新装なった聖王宮にて、カルスとドーラが祝杯を上げていた。
二人とも、ゆったりした長衣を着ている。
一口飲んだドーラがフフッと笑った。
「まあ、当初の目論見どおりには行かなんだが、当分の間、ガルマニアは国内の問題で手一杯になるであろうのう」
カルスは一気に杯を開け、ニヤリと笑った。
「それもこれも、おふくろどののお陰と感謝しております」
「なんの、相手がブロシウスやチャドス程度では、自慢にもならぬ。それより、問題は、聖剣の行方じゃな」
真顔になったドーラの言葉に、カルスも笑顔を消して頷いた。
「はい。今のところ、ニノフもウルスも手に入れた様子はありません。とすれば、まだカルボンが持っているのでしょうが、あやつにそれ程の力があるとも思えませんし」
「そうよのう。わが子孫とは云え、殆ど一般人に過ぎぬカルボンに、聖剣を使いこなせるはずもないぞえ。いったい誰が力を貸しておるのか。もう一度、当日の足取りから調べ直してみるとしよう」
その時、またドーラの手に指輪が現れ、すぐに消えてしまった。




